高齢者施設を襲った津波 あのとき何が

(仙台局・杉本織江記者,北見晃太郎記者,盛岡局・梅澤美紀記者)

「638人」

これは東日本大震災のときに岩手・宮城・福島の3県にあった高齢者施設で被災し、命を失ったお年寄りや職員の数です。

当時、全壊や半壊の被害を受けた高齢者施設は74施設にものぼりました。

三陸の美しい海を眺めながら穏やかに老後を暮らしていたお年寄りたち。

施設の中には、避難マニュアルを策定し、訓練を重ねていたところもありました。

「なぜ助けられなかったのか」

「あのとき、何が起きていたのか」

東日本大震災から今に続く、高齢者施設の課題を検証します。

想定を上回った津波 「どうすればよかったのか…」

「誰かを助けようと思ってほかの誰かを離せば、 その人が溺れてしまうような状況だった」

そう語るのは、宮城県気仙沼市の老人保健福祉施設「リバーサイド春圃」の元施設長、猪苗代盛光さんです。

震災当時、海からわずか400メートルの場所にあった施設では、寝たきりの人や認知症の人など、要介護度の高い133人のお年寄りが暮らしていました。

このためあらかじめ消防とも協議したうえで、津波の際は海抜約7メートルの2階に入所者を避難させるという避難マニュアルを策定していました。

地震発生直後。

市の防災無線によって伝えられた予想される津波の高さは6メートルでした。

このため猪苗代さんたち職員はマニュアルに基づいて、約30分で入所者の2階への避難を完了させました。

しかしそのわずか10分後。

津波は市や施設の想定を超え、2階にも侵入してきたのです。

水位はまたたく間に上がり、猪苗代さんの胸の高さまで迫りました。

猪苗代さんの目の前を、車いすごとひっくり返って溺れた人たちが流されていきました。

しかし近くにいた2人の入所者が流されないよう両脇で抱え続けること以外に、できることはなかったと振り返ります。


猪苗代さん:
「抱えていた2人を安全な所に連れて行き、別の人を救おうとしましたが、『助けてくれ!』と後ろから襟首をつかまれ、助けに行けませんでした。その時、目の前で溺れていった方の顔は 今でも忘れられません」

この施設では、津波に流されて亡くなったお年寄りが47人にのぼりました。

一方でなんとか津波からは逃れたものの、避難所の過酷な環境に衰弱していくお年寄りも少なくありませんでした。

真冬の体育館の冷たいフローリング。大きな暖房器具は停電で使えませんでした。

数台の石油ストーブを炊いて囲んだものの、ぬれたままの身体を暖めるには足りません。

さらに12人ものお年寄りが低体温症などで命を落としたのです。

「あの日、あの時、どうするのが正解だったのか」。

施設長だった猪苗代さんは、いまもその答えを出せずにいました。

離れた場所への避難にも限界が

東日本大震災では、施設内での垂直避難だけでなく、外の避難場所に向かう途中に犠牲が出てしまった施設もありました。

その一つが、宮城県東松島市の特別養護老人ホーム「不老園」です。松島湾の海岸のすぐそばに建てられた施設は、県が松島の景観を守るために策定した「保存管理計画」で建物の高さが10メートルまでに制限されていました。このため施設は平屋建てで、津波の際は屋外に避難する必要がありました。

あの日、職員たちは59人いた入所者を数人ずつ車に乗せて避難所に運ぼうとしました。しかし道路の大渋滞が行く手を阻みました。

途中の橋が車2台がやっとすれ違えるほどの幅しかなかったこと、地震で列車が緊急停止して踏切の遮断機が下りたままになったことが要因とみられています。

津波が施設に押し寄せた時には、まだ利用者の半分ほどが車を待っていたといいます。

さらに避難所に向かう途中の車や、避難所の体育館までが津波に襲われ、入所者56人と職員8人が犠牲になりました。

岩手県山田町の介護老人保健施設「シーサイドかろ」は、建物は2階建てでしたが、当時の津波避難マニュアルでは火災などのリスクも考慮し、海抜7.5メートルの裏山に入所者を避難させることになっていました。

しかしその裏山から目視できるほどに津波が迫ってきたため、海抜15メートルの高台にある体育館を目指すことになりました。施設から外の裏山、裏山から高台の体育館へは急な坂道が続きます。職員は何度も往復し、車いすや寝たきりの入所者をベッドごと押して避難させていきました。

そして地震発生から約40分後。施設を13メートルの津波が襲い、避難途中だった入所者74人と職員14人が犠牲になりました。


失われた命 向き合う遺族は

ついの住みかで被災したお年寄りと、福祉の仕事に従事していた職員。

残された遺族もそれぞれ、複雑な思いを抱え続けていました。

宮城県気仙沼市の島田久照さん。

震災の1年前に母親のゆきさんを、認知症が理由で海沿いにあった施設に預けました。

「最大の恩人である母親がどんどん崩れていく姿を見ていられなかった」

島田さんの車でよく海までドライブにでかけていたゆきさん。

82歳で被災し、帰らぬ人となりました。

島田ゆきさん

久照さんは津波のリスクを考慮せずに施設を選んだことを後悔していました。

島田久照さん:
「ああいう立地って、結果論として言うのは簡単ですけど、入所させる際にそういうのは 微塵にも思いませんでした。最後、母親にすまないっていうのはあります/災害が自分たちの身に降りかかるとは思っていなかったんです。そこは悔やまれますが、家族の面倒を見続けるのも大変なことで、災害だけを考えて施設を選ぶことができたのかとも感じます」。

犠牲になった施設の職員に、申し訳なさを感じている遺族もいました。

宮城県東松島市の佐藤正一さんです。施設に入居していた母親のみや子さん(当時89歳)を亡くしました。

佐藤正一さん:
「みんな一生懸命やったみたいです。かえって申し訳ないような気がします。生きた人も大変だし。死んだ人も大変だし。今さら何も言えません」。

岩手県山田町にあった施設の職員だった五十嵐聡子さんは、明るく仕事熱心で、入所者のことをいつも気にかけていました。

あの日、入所者の避難誘導にあたっている最中に津波に飲み込まれたとみられています。

「(母)お年寄りと一緒に働いていればね、自分ひとりでは逃げられないもんね」
「(父)逃げられないべ。そういう性格ではない」
「(弟)きっと、おじいさんおばあさんを、入所者の人を助けようとして。頑張って」

父親の良雄さんは震災後の11年間、毎日欠かさず聡子さんのお墓を訪れています。

人けのない早朝。33歳で命を失った娘に静かに語りかける、年老いた父の姿がありました。

五十嵐良雄さん:
「俺は死ぬまで拝み続けるよ。『よく頑張ったな』って。それしかねえべ」

超高齢社会の中で 大規模災害にどう備える

南海トラフの巨大地震や、千島海溝・日本海溝沿いの巨大地震だけではありません。

私たちに突きつけられている津波のリスクは全国に広がっています。

一方で、少子高齢化が進み、国のまとめでは、全人口に対する65歳以上の高齢者の割合が、震災前の2000年は17.4%だったのが2020年には28.8%に増え、さらに、2065年には38.4%になるとも推計されています。

「超高齢社会に私たちは安全な場所で老後を過ごすことができるのか」

東日本大震災の教訓は、いまなお、私たちにその課題を突きつけています。

特別養護老人ホーム不老園 元施設長 平野耕三さん

平野耕三さん:
「悲劇というのは起きないとなかなか分からないものだと思います。東日本大震災では避難所で亡くなった人のほか、避難経路で亡くなった人も多くいました。高齢者施設には最初から弱い人が入っているわけですから、立地条件やリスクを一番に考えなければならないですし、いざという時にどう避難するのか、常に考えておかなければならないと感じます」