静寂の街 消えた“耳印”
男性は、街にあふれるさまざまな音を聞き分けていました。コンビニの自動ドアの音、ラーメン屋のBGM。自動販売機の音まで。すべては生きるため。 覚えた一つ一つの音は、“耳印”として記憶に刻み込まれていました。しかしいま、耳印は消え、その場に立ち尽くすこともあるといいます。 (社会部記者 災害担当 飯田耕太)
目次
地震計がとらえた“コロナの静寂”
“耳印”の取材は、意外なところから始まりました。
揺れをとらえる、地震計です。
車のエンジンや人々の足音、工場の機械音…。社会生活に伴って出る音は、すべて振動として地中に伝わっていました。
地震を観測するうえでは妨げとなる「ノイズ」と呼ばれています。
東京を中心とする1都5県に整備されている観測網「MeSO-net(メソネット)」。約290もの地震計が記録した「ノイズ」が、コロナ禍の異変をあぶり出していたのです。
「ノイズ」は去年4月の緊急事態宣言の前後、ほとんどの地点で大きく減少しました。
地震計がとらえた、いわば“コロナの静寂”。同様の事例は世界各地で報告されています。
“ノイズじゃない人たちがいる”
災害担当になって3か月程度しかたっていなかった私には、強く興味をひかれる内容でしたが、同時にこうも思いました。
「人が外に出ていないし、当たり前か」
しばらくたって、先輩記者との何気ないやり取りが、記憶を呼び覚ましました。
「『ノイズ』だけど、『ノイズ』じゃなかったんだ」
すぐに当事者を探し、実態を教えてもらうことにしました。
“耳印”で地図をつくる
「あ、これこれ。ここ、ファンの音がするでしょ?」
立ち止まったのは、ラーメン店の前。耳を澄ますと「ブォー」と低い音を立て回り続ける換気扇のモーター音が聞こえました。
東京 豊島区で暮らす市原寛一さん(54)。20年前、事故で視力を失いました。全盲に近く、通勤や買い物などの際は白杖(じょう)が欠かせません。
音が、自分のいる場所の手がかりだといいます。
次に立ち止まったのは、通りから脇道を少し入ったところにあるコンビニエンスストア。
「ガシャガシャ、ガラッ」自動ドアが開閉するたび、鈍くこすれるような音がしています。
市原さんの通勤ルートからは少し外れるそうですが、近くのコンビニより音がはっきりしているので、こちらの店をよく使うのだそうです。
家電量販店のBGM、交差点の人の足音、食堂の自動販売機から落ちるプラスチックの食券の音まで。私にとっては、騒音にも近いような音も。
しかし、市原さんにとっては、すべてが道しるべ。あらゆる音の特徴を、しかも場所と組み合わせて、記憶していました。
これらをまとめて、“耳印”と呼ぶのだそうです。
「目の見えない私たちにとっては、音が世界のすべてです。特徴的な音は“耳印”として、頭の中の地図に刻み、自分の位置と音の場所の因果関係を作って歩いています。多くの視覚障害者がそうしていると思います」
失われた街の音
精密に作り上げられた脳内の地図。新型コロナの影響で、大きく様変わりしてしまいました。
閉店や休業する店も相次ぎ、頼りにしていた“耳印”を失って道に迷うことが増えたといいます。
換気のために入り口の自動ドアなどを開けっ放しにする店では、開閉する音がしなくなり、入り口がわからなくなりました。
そうした場所は、どんなになじみの店であっても足が遠のいてしまうそうです。
「このコロナ禍で、人の動きや生活音の環境が一変し、覚えた“耳印”や地図の多くは使えなくなってしまいました。特に緊急事態宣言が出たときや解除されたときなどで音の状況は大きく変わり、最近もまた静かになってきています。そのつど新たに“耳印”を覚え直さなくてはならないのは、本当にストレスです」
“コロナの静寂”影響は今も
「人出があまり減っていない」とも言われる2度目の緊急事態宣言で、地震計のとらえている「ノイズ」はどう変化しているのか。
分析を依頼するため、私は産業技術総合研究所の矢部優研究員のもとを訪ねました。
去年4月に比べると、地点の数や減少の幅は少なくなったものの、23区を中心にノイズが低下していました。
上昇していたのは郊外や住宅地。車の通行量や在宅勤務が増えたことが影響している可能性もあるということです。
大都市部での影響は、はっきりしていました。
市原さんが住んでいる豊島区池袋の観測地点でみると、緊急事態宣言が出た4月の前後に静かになっていました。その後上昇傾向も見せますが、1月も再び静かになっていたのです。
「年末年始のような移動が少ないときに都市部で低下することはありましたが、これほど続くことは異常事態といってよいでしょう」
命がけの横断
再び、池袋で市原さん。音の環境が変わり、特に緊張を強いられるのは交差点だといいます。
「行けるの?いや、また今度にしよう…」
このとき、歩行者用の信号は青でした。しかし、本来聞こえるはずの減速する車の音や、人が横断歩道を渡る足音が聞こえず、一歩が踏み出せないのです。
市原さんにとっていま、一番危険な瞬間だといいます。
「周りに人がいないと思っていても、ソーシャルディスタンスで一人一人離れて立っているという場合もあります。青信号を確信できない状況で、いちかばちかの勝手な判断で渡るときもあり、命がけです。とても怖さを感じます」
最大の悩み 接触恐れる社会
そして、市原さんにとって何よりも残念なのは、人が人との接触を恐れるようになってしまったことです。
周りに声をかけても、素通りされたり、舌打ちされたりしたこともあったそうです。
「触って確かめる」「触って助けてもらう」ことが当たり前の、視覚障害者の世界。距離をとられ、敬遠されるようになったことに、絶望さえも感じるといいます。
「私たちが手伝ってもらうときは、ひじや肩を貸してもらうなど、どうしても接触の機会が多くなりますが、人が距離や間隔をあけて過ごすようになり、『声かけ』などの日常的な支援も減っています。視覚障害者にとっては出歩きづらく、とても生活しにくい社会になったと感じます」
新しい“耳印”も生まれた
取材の終盤に、市原さんが「新しい音」を教えてくれました。
「こんにちは。寒いですね~」
通り沿いの飲食店の店員がかけてくれる「声」です。
去年の春ごろ、店の前を行ったり来たりする市原さんの姿に気づいて以来、店の外で見かけるたびに声をかけてくれるようになりました。
「最初は道に迷っているのかなと思い、あいさつ程度のつもりでした。それから長いおつきあいが始まりました。喜んでいただけているのであれば、うれしいですね」
そして、もう1つはたまたま生まれた音。交差点で市原さんが信号待ちをしていたときでした。
「青になったよ」
少し硬い表情で立つ市原さんに、見知らぬ若い男性がボソっと伝えたひと言。男性は、そう言うと足早に去って行きました。
コロナでいくら音が消えていっても、人の温かみだけは決して無くなることはない。そう気づかされた瞬間でした。
ひと言が支えに
変化に対応するため、市原さんたち視覚障害のある人たちでつくる団体も動いています。
支援してほしいというメッセージが明確に伝わるように、白杖(じょう)に貼るシールを作りました。
「2・3分サポートしてください」と書かれ、助けが必要なときには高く掲げます。
「手を差し伸べてくれなくたっていいんです。たったひと言声をかけてもらえるだけで、ずっと街を歩きやすくなりますし、気持ちも楽になります。私たちから皆さんがどこにいるのかを知ることはできないので、交差点で立ち尽くしたり道でウロウロしたりしている視覚障害者がいれば、気軽に声をかけてほしいです」
私も折をみて「声かけ」を実践したいと思います。できれば、手に握られた白杖(じょう)が上がる前に。
きょうからできること
コロナ禍での視覚障害者への「新しい声のかけ方」について、先日SNS上でこんな投稿も話題になりました。
盲導犬の支援団体がツイッターで呼びかけている、コロナ禍の「新しい声かけ」方法。
盲導犬を連れた人だけでなく、白杖(じょう)の人にも同様に声かけを勧めています。
1. 道を案内するとき、少し前を歩いて、声で誘導。
2. 店内に入るときは、消毒液の設置場所を声で教えてあげる。
3. レジに並ぶ際は、前後の人が「2歩進みましたよ」などと声をかけてあげる。
こんな「道しるべ」もあちこちで
コロナ禍で視覚障害者が直面しているさまざまな困難に気づき、細かな配慮が実現したところもあります。
・豊島南大塚郵便局(東京 池袋)
感染防止のため、ドアを開放していた郵便局で、前を通り過ぎたり、立ち尽くしたりする視覚障害者が相次ぎました。そのため、迷わず中に入れるように、歩道の点字ブロックとドアの間に点字マットを敷設しました。
・高知市役所
感染防止対策のための消毒液の場所がわからないことが多いため、市役所の正面玄関に、人の動きを赤外線センサーで感知すると消毒液の場所を自動音声で伝える案内装置を導入しました。
・大阪府立障がい者交流促進センター(ファインプラザ大阪)
レジや受付などで順番に並ぶ際、距離をとるための「ディスタンスマーク」を識別できないことが多いことから、ロビーに間隔をあけてもらうためのゴム製のマットを設置しました。
- 社会部記者
災害担当 - 飯田 耕太
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