原爆が投下された“受難の地”
昭和20年8月9日、アメリカ軍の爆撃機によって、2発目の原爆が投下されたのは、長崎市中心部から3キロ余り離れた郊外の浦上地区。
アメリカ軍の本来の目標ではありませんでしたが、たまたま雲の隙間から見えたことで標的となりました。
その浦上地区には、キリスト教が禁じられた江戸時代、潜伏しながら信仰を守り続けたカトリック信者が多く住んでいました。
この地区のカトリック信者1万2000人のうち、8500人が原爆で亡くなったと言われています。
顔にケロイド残った片岡ツヨさん
5年前に亡くなった片岡ツヨさんも浦上地区のカトリック信者でした。
原爆できょうだい、おいやめい、合わせて13人を亡くしました。
また、片岡さん自身も原爆の熱線で大やけどを負いました。
顔にはケロイドが残り、手もひきつって十分に動かなくなりました。その後、片岡さんは結婚を諦め、病院清掃の仕事をしながら、独りひっそりと暮らしていました。
法王の平和アピールで心落ち着く
38年前の昭和56年、当時のローマ法王、ヨハネ・パウロ2世が、初めて日本を訪れました。
そして、広島の平和公園で行った平和アピールで、次のように述べました。
「戦争は“人間のしわざ”です。過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです。戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割、個々人の役割を考えないで済ますことは許されません。平和達成のために、みずからを啓もうし、他人を啓発しようではありませんか。再び戦争のないように力を尽くそうではありませんか」
片岡ツヨさんは生前、NHKのインタビューに対して「ヨハネ・パウロ2世の『戦争は“人間のしわざ”』ということばを聞き、『あー、そうだったのか』と心が落ち着いた」と話していました。
このことばが、なぜそれほどまでに片岡さんの心に響いたのでしょうか。
原爆投下は“神の摂理” 解釈に苦しむ
長崎のカトリック信者の間では、それまで、ある考え方がよりどころになっていました。
それは浦上地区の代表的なカトリック信者が示した、原爆投下は“神の摂理”、つまり神の配慮・計らいによるものであり、信者は平和のために犠牲になったという解釈です。
この解釈を示したのは、原爆で妻を失いながら、献身的に被爆者の救護活動にあたった医師の永井隆でした。
原爆投下の3か月後、永井は、浦上天主堂の廃虚で行われた合同慰霊祭で、信者を代表し、次のように弔辞を読み上げています。
「互いに殺し合って喜んでいたこの大罪悪を終結し、平和を迎えるためには、ただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神におわびをせねばならないでしょう。浦上がほふられた瞬間、初めて神はこれを受け納めたまい、人類のわびを聞き、たちまち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させたもうたのであります」
多くの信者が原爆で亡くなったことを、信仰の中でどう解釈すればよいのか。悩みの中で提示された答えの1つが、こうした永井の考え方でした。
しかし、片岡さんは、顔に残ったケロイドまで”神の摂理”として受け入れなければならないのかと苦しんだと振り返っています。
もし”神の摂理”であるならば、原爆を恨むことも許されないと考えたのです。
積極的に語り始めた被爆体験
そんな時に耳にした、ヨハネ・パウロ2世の「戦争は“人間のしわざ”」ということばに、片岡さんは救われました。
そして戦争を繰り返さないため、平和のためには、人に直接働きかけなければならないと思うようになり、黙して語らなかったみずからの被爆体験を語り始めました。
長崎市を訪れる修学旅行生らに対し積極的に被爆体験を伝え、核兵器廃絶と世界平和を訴え始めたのです。
片岡さんは「人に見られることさえつらく、最初、話をしたときは足が震えてガタガタでした。しかし話し続けるうちに、顔のケロイドのことをすっかり忘れていました」と、当時を振り返っています。
法王のことばによって、片岡さんだけでなく、多くのカトリック信者が被爆体験を語り始めたと言われています。
フランシスコ法王のメッセージは
今回、フランシスコ法王は、被爆者や子どもたちを前に、長崎の爆心地から核廃絶に向けたメッセージを発表します。
おととし、核兵器を全面的に禁止する初めての条約・核兵器禁止条約が国連で採択されました。
国家としてのバチカンが、いち早くこの条約を批准する一方、核保有国や日本など核の傘の下にある国はこの条約を批准していません。
こうした中で、フランシスコ法王は、どのようなメッセージを発するのか、そしてそのメッセージが、今度はどのような影響を世の中に与えることになるのでしょうか。
- 長崎放送局記者
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畠山博幸
昭和59年入局
長崎局は2度目の勤務
被爆者の証言を残すニュースの企画シリーズを担当