
5月14日に総選挙が行われる東南アジアのタイ。
“微笑みの国”とも言われるタイですが、実は2014年のクーデター以降、軍の影響力が強い政権が続いてきました。
今回の選挙で政権交代が起きるのか。軍の影響力は?選挙後のシナリオは?
詳しく解説します。
(国際部記者 吉元明訓)
そもそもタイってどんな国?

人口およそ6600万、面積は日本の1.4倍のタイ。
2019年にタイを訪れた日本人観光客はおよそ180万人で日本人の人気の旅行先の1つとなっています。
日本を訪れたタイ人の観光客も130万人あまりと、10年前のおよそ7倍になっています。

タイに進出している日系企業は5800社あまり。日本の自動車産業の一大生産拠点となるなど、経済的な結びつきも強く、日本経済にとって欠かせない国の1つです。
「日本の方にはわかりにくいかもしれませんが、タイの選挙は非常に盛り上がります。ちょっと不謹慎な言い方かもしれませんが、ジャイアンツとタイガースの試合を応援しているような感じでしょうか」
こう話してくれたのは法政大学の浅見靖仁教授です。タイの政治に詳しい浅見教授に、今回の総選挙について聞きました。

※以下、浅見教授の話。
タイの選挙制度はどうなってる?
タイの議会下院の選挙制度は日本の衆議院選挙と似ています。
2019年以来、4年ぶりの選挙となる今回の定員は500。このうち400議席は「小選挙区」、100議席は「比例代表」で決まります。

小選挙区は、それぞれの選挙区で最も多くの票を獲得した候補者が当選します。
一方、比例代表は得票に応じて各党の議席数が決まります。そして、政党があらかじめ提出した名簿の上位から各党が獲得した票数に応じて当選者が選ばれます。
日本では比例代表は11ブロックに分かれていますが、タイでは全国で1つとなっています。議員の任期は4年で、投票権があるのは18歳以上です。
また、現在の上院の定員250は、いずれも軍が任命した形になります。
総選挙の後に行われる新たな首相を選ぶ選挙は、500人の下院議員だけでなく250人の上院議員をあわせた750人で行われます。そのため、首相になるには750の過半数、376人以上の支持が必要になります。
今回の選挙で主要な政党は?


与党・国民国家の力党
2019年の選挙ではプラユット元陸軍司令官を首相に推すことを公約に掲げました。同じく元陸軍司令官のプラウィット副首相が代表を務めています。職業政党政治家より軍人に国の運営を任せるべきという考えです。

与党・タイ団結国家建設党
プラユット首相が「国民国家の力党」とたもとをわかち、自身の支持派が新たに立ち上げた政党で、「国民国家の力党」と同じく、軍人に国の運営を任せるべきという考えです。

野党・タイ貢献党
3人の指導者を首相候補として掲げていますが、そのうちの1人がタクシン元首相の娘であるペートンタン氏です。タクシン色の強い最大野党で、農村部が主な支持基盤です。

野党・前進党
軍の政治関与に反対するとともに王室批判も辞さないという立場です。特に都市部の若い世代から人気を集めています。
タクシン元首相って?

2001年から2006年までタイの首相を務めた非常に個性の強い政治家で、その評価は人によって大きく分かれます。
タクシン氏は農村部や都市部の貧困層の間で非常に大きな人気を得て、様々な改革を進めました。ただ、その改革のいくつかがいわゆる既存のエリート層の既得権益をも脅かすようになったのです。
また、タクシン氏があまりにも農民の支持を得たことで、国王の権威にとっても脅威となるという見方をする保守派の人たちが現れました。
これまでの社会のあり方を維持するためには、タクシン氏の力を削がなくてはいけない。そう考えるようになった保守派の危機感が首都バンコクの中間層の一部にも支持されるようになった状況で、2006年、そして2014年の軍によるクーデターは行われました。
このため、2021年のミャンマーのクーデターとは違って、クーデター直後に非常に多くの市民の抗議行動に直面することにはなりませんでした。
今の政権を握っているのは?
今の首相は、2014年に陸軍司令官として軍事クーデターを率いたプラユット首相です。

選挙で選ばれた政権をクーデターで倒し、5年間軍事政権が続きました。
その後、憲法を制定しその憲法に基づいて2019年に総選挙が行われましたが、最も多くの票を獲得したのは“タクシン派”の「タイ貢献党」でした。
ただ、過半数には達しなかったため、「タイ貢献党」に次ぐ得票だった「国民国家の力党」が、その他の中小の政党と連立政権をつくって下院の過半数をぎりぎり確保し政権を担ったのです。
警察や地方行政などを管轄する非常に重要なポストである内相は、プラユット首相の軍時代の先輩にあたり、陸軍司令官を経験したことのあるアヌポン氏が務めています。
副首相も国会議員ではない陸軍司令官の経験者、プラウィット氏が務めており、2019年以降も軍の影響力が強い政権だと言えます。
現政権の評価はどう?
軍出身の首相が率いる政権への評価は特にこの1年、各種世論調査をみても非常に低く、支持率も下がり続けています。
2014年のクーデターの時点でもそれほど人気があったわけではありませんが、中間層が多いと言われる首都バンコクではクーデターを歓迎するムードは一定程度ありました。
しかし、もともと政治家の汚職などを理由にクーデターを行ったにもかかわらず、汚職は減らず、むしろひどくなったとも言われています。
さらにこの3年は、新型コロナウイルスの影響で海外からの観光客が急激に減って経済的に打撃を受けました。軍人たちは経済に詳しいわけではなく、経済運営でも点数を稼ぐことができませんでした。
今回の選挙 最新情勢は?
各種世論調査や各党関係者の話を総合すると、下院の定員500のうち、タクシン色の強い最大野党「タイ貢献党」が200議席、若い世代から人気を集めている「前進党」が80議席を超えると思われます。
親軍派の政党はかなり議席を失うでしょう。
特に、この1か月で大きく支持を伸ばしているのが「前進党」で、100議席を超えるという予想をする人もいます。
「前進党」は、プラユット首相率いる「タイ団結国家建設党」とプラウィット副首相が代表を務める「国民国家の力党」の、親軍派の政党のいずれとも連立を組まないことを明言しています。
これに対して、タクシン派の「タイ貢献党」は、プラユット首相率いる「タイ団結国家建設党」とは連立を組まないと断言していますが、「国民国家の力党」との連立についてはことばを濁しています。

選挙が近づくにつれて、テレビの党首討論などで軍の政治関与への歯切れの良さと悪さの違いが鮮明になり、保守派と妥協する「タイ貢献党」と大胆な改革を行う意欲と覚悟がある「前進党」という位置づけになりつつあります。
今回の選挙 注目点は?
キーワードは「軍がどこまで撤退するのか」、そして「タクシン派ではない改革派がどこまで勢力を伸ばすのか」の2つです。
武力をもつ軍が選挙の結果を踏まえておとなしく政治の表舞台から撤退するのか。首相や内相などの重要なポストを手放すのかどうかが1つ目の注目点です。
そして2つ目は選挙の対立軸の変化です。これまでは、タクシン元首相とそれに反発する人たち、いわゆる「タクシン派」と「反タクシン派」が基本的な対立軸でした。
今回の選挙では、これに加えて、タクシン派があまり触れたがらない王室批判も辞さない「前進党」が出てきています。

▼軍の政治関与を容認するのかしないのか、▼王室に対しても批判すべき点は批判するのか、それとも一切批判しないのか。この2つの軸がどれだけ選挙結果に影響をおよぼすのかにも注目しています。
「都市」対「農村」という軸はまだ残っていますが、タクシン派よりも大胆な改革を公約に掲げた「前進党」が都市部の若い世代から大きな支持を獲得するようになったことによって、改革を求める若い世代と抵抗を感じる中高年との世代間の意識の違いも大きくなりつつあります。
首相はどうなる シナリオは?
「タイ貢献党」が第一党になるというのが大方の見方ですので、連立相手がどうなるかがポイントです。

「前進党」が予想を大きく上回る130議席ぐらい取ると、「前進党」を野党に回して政権運営するのは「タイ貢献党」にとっても難しくなります。
一方で、「前進党」が100議席に達しなれば、「タイ貢献党」は「前進党」抜きの連立政権を目指すでしょう。
そうなると、現在の連立政権に参加しているいくつかの政党の一部を自分たちの味方につけないといけなくなります。与党の中でも軍との関係が薄い、あるいは軍人の政治関与の継続をそれほど強く主張しない政党と組むことになると思います。
「国民国家の力党」の代表を務めるプラウィット副首相は2014年のクーデターに関与はしましたが、中心的な役割を担ったわけではありません。
この勢力とも手を組む選択肢を残すために、「タイ貢献党」は「国民国家の力党」との連立の可能性について明言を避けていますが、今のところはそれが裏目に出ている状況です。
選挙後に誕生する新政権がどういう組み合わせになるかは選挙結果次第で、多くのタイ人が今回の選挙に大きな関心を寄せています。
日本企業への影響は?
この10年、タイで急速に低下している日本企業の存在感がさらに落ち込むきっかけになる可能性はあります。
どの政党が中心の政権ができても、経済政策や外国企業に対する扱いが大きく変わることはないでしょう。ただ、政権がかわることで、これまでとは違った政策を打ち出そうとすると思います。

例えば、タイで非常に盛んな自動車産業では日本企業も多く進出しています。
ただ、タイではガソリン車については1日の長がありましたが、同じ東南アジアのインドネシアやベトナムはEV=電気自動車の生産に力を入れ、急激に成長しています。
このため、どの政党が政権を握っても、これらの国に遅れをとるまいと電気自動車にこれまで以上に力を入れるようになると思います。
日本企業は、中国や韓国の企業にくらべて電気自動車の生産では大きく出遅れています。
変化に対応する準備をしておかないと、タイでの日本企業のプレゼンスの低下に拍車がかかる可能性はかなりあると思います。