2024年3月14日
経済 イギリス ヨーロッパ

イギリス史上最大のえん罪 無実の郵便局長がなぜ“犯人”に?

「えん罪事件は、私の人生を完全に変えました」

こう訴えるのは “イギリス史上最大のえん罪の1つ” とされる、郵便局を舞台にした事件の被害者です。

イギリスの郵便局長ら900人以上が横領などの罪で訴追され、日本企業の会計システムの欠陥がえん罪につながったと指摘されています。

無実の罪を着せられた元郵便局長が経験した過酷な人生とは?そして、名誉回復や補償は今後どうなるのか?

現地で今も波紋を広げている事件の内実を追いました。

(ロンドン支局記者 松崎浩子)

“半年で不足額が1000万円に”

イギリスの郵便局で、会計システムの欠陥が、どのようなえん罪を生んだのか。

事件の被害者で元郵便局長の1人、イングランド北東部のジャネット・スキナーさん(53歳)に話を聞くことができました。

ジャネット・スキナーさん

スキナーさんは23歳の時、郵便局にアルバイトとして採用されました。2人の幼い子どもを育てながら懸命に働き、10年後には局長に。

政府の給付金の多くは郵便局を通じて支払われるため、地域の住民1人1人と密接に関わる仕事にやりがいを感じていました。

2人の子どもを抱くスキナーさん(1991年9月撮影)

しかし、局長になった翌年の2005年12月に人生が暗転します。窓口の現金と会計システム上の残高が合わなくなり始めたのです。

最初は、7000ポンド(約130万円)不足しました。システム障害だと思い、郵便局を統括する国営の郵便会社、ポスト・オフィスに助けを求めて電話で相談すると、決まってこう言われたといいます。

ポスト・オフィス担当者の言葉(スキナーさんの証言による)

「会計システムにミスは見つかっていません。責任はあなたにあり、矛盾を正さなければなりません」

スキナーさんは「間違ったことはしていない、いずれは帳尻が合うだろう」と考えましたが、残高の不一致は翌週以降も続き、半年後には5万9000ポンド(約1100万円)まで膨らみました。

ポスト・オフィスとの間で、窓口の現金の不足は郵便局長の責任になるという契約を結んでいたため、2006年には停職処分を受けました。

身の潔白を示す証拠となりえる資料などは何も持ち出せないまま、郵便局から追い出されたのです。

司法取引で罪を認めた末に実刑に

裁判で損失の責任を問われたスキナーさんは、弁護士を通じて「もし不正会計の罪を認めれば、窃盗の罪は取り下げる」と司法取引を持ちかけられました。

当時10代だった子どもたちのことを考え、取引に応じて罪を認めましたが、2007年に言い渡されたのは実刑判決。約3か月間、刑務所に収監されました。

出所後も苦難が続きます。地元の新聞には「年金を盗んだ犯人」として実名が掲載され、職を失った上に損失の補填を求められて家を手放しました。

スキナーさんは心身に強いストレスを受け、その後、首から下が完全に麻痺して4か月の入院を余儀なくされました。今も仕事はできていません。

スキナーさん

「私は子どもたちの模範であるべきなのに、やっていないことで刑務所に送られ、子どもたちを失望させました。刑務所に入る前は、自分の家を持っていて、普通に毎日仕事に行っていたのです。
しかし、この15年間、私の名前を聞いて、事件に気づく人がいるのではと思い、名乗ることを恥じていました。えん罪事件は、私の人生を完全に変えました」

“900人以上が訴追” 事件の経緯は

この事件の始まりは、25年前にさかのぼります。

欠陥のあった会計システム「Horizon(ホライズン)」を開発したのは富士通のイギリスの子会社で、1999年から2015年までの間に郵便局の窓口の現金とシステム上の残高が合わなくなる事態が発生。

不足分が発生した責任は当時の郵便局長らが負い、これまでに983人が横領などの罪で訴追されました。

しかし、2016年に555人の元郵便局長らがポスト・オフィスを訴える集団訴訟を起こし、2019年には裁判所が会計システムに欠陥があったと認定。

ポスト・オフィス側に5800万ポンド(約109億円)の支払いが命じられたものの、被害者はその大半を裁判費用に充てざるを得なかったといいます。

さらに、これまでに100人余りが有罪判決を取り消されましたが、今も大多数の人は有罪となったままです。

事件の関心を集めたテレビドラマとは

この事件への関心がイギリスで集まったきっかけは、ことし1月に放送されたテレビドラマ「ミスターベイツ VS ポスト・オフィス」でした。

テレビドラマ「ミスターベイツ VS ポスト・オフィス」より

スキナーさんのように無実の罪を着せられた郵便局長が、他の被害者たちと疑いを晴らすまでの長い闘いを描いた内容で、4日間連続で放送されました。

最終回は、イギリス全土で1000万人以上が視聴したとされています。

ドラマの内容は多くの人々の感情を揺さぶり、郵便局の統括会社であるポスト・オフィスとイギリス政府、そして会計システムを納入した富士通への批判が再び高まったのです。

ドラマのプロデューサーを務めたパトリック・スペンスさんによると、制作の構想が始まったのは4年前。

きっかけは、同僚から被害者たちの話を聞いたことで、事件に気づいていなかった自分が腹立たしくなったと言います。最も慎重に進めたのが、被害者に実際に話を聞いて、事実に間違いはないと確認することでした。

スペンスさんは、ドラマをきっかけに高まった国民の怒りが、問題そのものの解決につながることを期待しています。

テレビ局プロデューサー パトリック・スペンスさん

スペンスさん

「ドラマの放送を阻止されないためにも、3年かけて事実確認を進めました。
被害者の多くは、郵便局から追い出され、貯金を取り上げられて犯罪者扱いされ、仕事に就くことができずに路上生活をしていました。被害者たちの次のステップは、有罪の取り消しです」

イギリス政府や富士通の対応は?

ドラマの反響は大きく、放送後の1月中旬には、イギリスのスナク首相が「イギリス史上最大のえん罪の1つ」だと発言。被害者を全面的に救済する考えを明らかにしました。

スナク首相(2024年1月)

また、システムを納入した富士通への批判も強まりました。

イギリス議会は、ヨーロッパ地域の責任者を務めるパターソン執行役員を呼び、パターソン氏は公の場で、郵便局長や家族に謝罪しました。

イギリス議会で謝罪する富士通 ポール・パターソン執行役員(2024年1月)

さらに、その3日後には、パターソン氏は政府が設けた独立調査機関の公聴会で「早い段階で会計システムにバグや欠陥などがあったことを関係者全員が知っていた」とも述べました。

システムが導入された直後の1999年11月には、すでに欠陥が把握されていたものの、2018年まで20年近く問題が続いていたと認めたのです。

富士通は被害者への補償について、調査機関による調査結果を踏まえて検討する考えを示しています。

富士通のオフィス(イギリス ブラックネル)

被害なぜここまで拡大?

なぜここまで被害の拡大を許したのか。取材を進めると、複数の理由が見えてきました。

①孤立した被害者たち

まず、スキナーさんを含む被害者たちは、ポスト・オフィスから「会計システムに関してこのようなトラブルが起こっているのはあなただけだ」と伝えられたと証言しています。

問題を1人で抱え込み孤立したことが、集団訴訟の遅れにつながった可能性があるとされています。

スキナーさん(中央)とともに集団訴訟を起こした他の元郵便局長や弁護士(2021年11月)

②イギリスの法制度の課題

また、イギリスには企業や個人が捜査機関の代わりに自ら証拠を集めて訴追できる「私人訴追」の制度があります。

今回、ポスト・オフィスはこの制度のもと郵便局長らを訴追しましたが、被害者は自分たちの無実を証明する書類などにはアクセスできず次々と有罪となりました。

スキナーさんも「あらがうすべを持たなかった」と話しています。

③ポスト・オフィスの隠蔽?

さらに、ことし2月、調査機関による関係者へのヒアリングの中で、被害拡大の理由の一端が明らかになる証言がありました。

ポスト・オフィスの調査官が富士通に対して「会計システムが原因ではないと証言することが、ポスト・オフィスと富士通、両者のためになる」などとメールを送り、会計システムに原因があることを隠蔽しようとしていた事実が浮かび上がったのです。

今後はイギリス政府関係者への調査も行われる見通しですが、ポスト・オフィスや監督する立場にあった政府、それに富士通が関わるこの事件は関係者が多く、調査結果がまとまり、責任の所在などを特定するのは来年以降になると見られています。

専門家“刑事司法制度を見直す議論も”

イギリスの法律に詳しい専門家は、法制度の見直しが進む可能性があるとしています。

エクセター大学 リチャード・ムーアヘッド教授

ムーアヘッド教授

「この事件をきっかけに法改正が起きる可能性は高いと思います。今のところ、私人訴追が問題だと伝えられていますが、実際にはそれよりもはるかに深刻です。
今後数か月の間に、弁護士や裁判所がこれらの教訓を心に刻み、刑事司法制度をより根本的に見直す必要があるという議論を始めるかもしれません」

ドラマの放送後、新たに200人ほどが自らがえん罪事件の被害者だと名乗り出たとしたうえで、教授は補償が必要だと指摘します。

これに対応しようと、イギリス政府は今年3月、被害者の有罪判決を覆す新たな法案を議会に提出しました。

一定の条件を満たすことで有罪判決を取り消し、それに加えて1人あたり60万ポンド(約1億1000万円)の補償金を受け取ることができ、被害者の多くが対象となる見通しです。政府はこの法案を、ことし7月末までに成立させる方針です。

イギリス議会の議事堂

求められる被害者の救済と真相究明

今回取材した被害者のスキナーさんは集団訴訟に加わり、3年前に有罪判決を取り消されました。

しかし、補償は十分ではなく、今も働くことができていません。そして、失われたかつての生活は二度と戻りません。

ドラマの放送は1月ですが、今もイギリスのニュースでは連日のように、これまで光の当たってこなかった被害者や、すでに亡くなってしまった被害者の家族の声が報じられています。その度に、いかに問題が深刻だったかを思い知らされます。

まだ名誉回復がなされていない人たちの一刻も早い救済に加え、なぜこのようなえん罪が起きたのか、真相の究明が何より求められていると思います。

ドラマ「ミスターベイツ VS ポスト・オフィス」より

(2024年3月5日おはよう日本で放送)

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