
長年ウクライナで暮らしてきた日本人夫婦は、ロシアによる軍事侵攻の開始を、現地で迎えることになりました。
避難の途中、シェルターで寝る場所などを優先して用意してくれたウクライナの人たち。
「自分たちの方が苦しいはずなのに…」
そんな彼らや彼女たちに、少しでも恩返しをしたい。
日本人夫婦は、今、避難を求める人たちを、助け続けています。
(国際部記者 大石真由)
「知らん顔できない」
「自分が教えた子どもたちが苦しんでいるのに、知らん顔できないでしょう」
こう話す70代の日本人夫婦が、ウクライナから日本への避難や留学を手伝ってきたのは、これまでに4人。

入国手続きの支援、身元の保証、住む場所、仕事、受け入れ先の大学探し。彼らや彼女たちが困っていることならなんでも。
現地の求人サイトに、日本の仕事を掲載し、見ず知らずのウクライナ人の受け入れにも乗り出しています。
ウクライナの人たちを助けることが「生きがい」とまで言う2人。
そこまでする理由は、「ウクライナへの恩返し」なのだといいます。
いつの間にか好きになったウクライナ
ウクライナの人たちの支援を続けているのは、葛西孝久さん(71)と妻の不二惠さん(71)です。
今は愛知県に住んでいますが、2022年3月までの12年間、ウクライナの首都キーウで暮らしていました。

もともと、愛知県の小中学校で教師をしていた2人。
ウクライナとつながるきっかけは、愛知県内で偶然知り合ったウクライナの女性でした。彼女が母国に帰ると、現地に遊びに行き、国内を案内してもらいました。
そこで接したウクライナの人たち。
日本人だからといって差別することもなく、礼儀正しく、それでいて親しみを持って接してくれる人が多いことに驚いたといいます。
葛西さん夫婦は、魅力にとりつかれたように何度も旅行に訪れ、12年前、教員の仕事を早期退職。
ウクライナへ移住することを決めました。
日本語を教えた生徒は100人以上
現地の大学で、日本文化や日本語を教える授業を持つことができた孝久さん。
その中で、「日本語を習いたい」というウクライナの人たちがいることを知り、自宅で日本語教室を開いてみることにしました。
すると葛西さんたちの日本語教室は、口コミで少しずつ人気を集めるようになり、妻の不二惠さんは毎日のようにほとんどマンツーマンで、日本語を教えるようになっていました。
授業がないときであっても、「食事をしたい」「話したい」と言って葛西さんたちの自宅を訪れる生徒たちもいて、葛西さんたちは、いつの間にか、多くの時間を生徒たちと過ごすのが当たり前になっていきました。

日本語を教えた生徒は100人以上。ウクライナの人たちと、教師と生徒という関係を超えて、“家族どうし”と感じられるような関係を築いてきました。
始まった軍事侵攻
しかし、2022年2月24日、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始。本当に侵攻してくるとは、予想もしていませんでした。
葛西さんたちは、すぐに30人ほどの生徒たちに連絡を取ります。
家族が軍に入隊するという生徒や、自宅の目の前にある建物が攻撃されたという生徒。
「戦争」は、現実のものでした。
ウクライナに残り続けたいと思っていた葛西さん夫婦。
しかし、砲撃を受ける危険が身近に迫っていることを実感し、日本へ帰国することを決意します。
避難先で触れた優しさ
葛西さんたちは国外に出るため、避難を始めました。
避難先のシェルターで出会ったのは、戦争が始まっているにも関わらず、やはり日本人の2人を分け隔てなく助けてくれるウクライナの人たちでした。
ボランティアが作ったスープやパンなど限られた食料を毎日分けてくれました。高齢の2人を気遣って、シェルターにある個室を優先的に使わせてくれた時もありました。

そんな優しさで接してくれたのは、ウクライナの人たちだけではありませんでした。
ウクライナの首都キーウを出てから4日。
日本に帰国するためには、隣国ポーランドに出る必要があり、西部の都市リビウを経由して、ポーランドの避難所にたどりついたときのことでした。
ほとんど寝ることもできずに避難を続けていたことから、避難所の受付で、休める場所がどこかにないか確認すると、1時間ほどして、見ず知らずのポーランド人夫婦が自宅で受け入れると、迎えに来てくれたのです。
シェルターで転び、ずっと足を引きずって避難してきた妻の不二惠さん。
看護師をしているという受け入れ先の妻は、すぐに知り合いの医師らに声をかけて検査をしてくれました。骨折していることがわかり、ギプスを巻くなどの治療を受けましたが、「治療費はいらない」と言われました。

葛西さんたちは、その家で10日間過ごしたのち、無事に日本に帰国することができました。
「ウクライナの人たちや、避難者を受け入れているポーランドの人たちは、私たちなんかよりもずっと苦しいはずなのに、これが、本当の『人助け』なんだと教えてもらうことができました」
ウクライナへの恩返し
日本に帰国してからほどなくして、葛西さんたちの所に1本の連絡が入ります。
「日本に避難したい」
連絡は、日本語教室の生徒の1人からでした。
ルスランさんという名前のその男性は、キーウ近郊で暮らしていましたが、自宅が破壊され、避難先を探していました。
持病があり、出国の制限を免除されていたルスランさん。隣国ポーランドには、すでに避難する人が殺到し、そうした人たちが現地で仕事を得ているためか、仕事を見つけるのが難しいと話しました。
ルスランさんが葛西さんたちから日本語を習っていたのは数か月の間でしたが、生きていくためには葛西さんたちが唯一の頼みだと、切迫した様子でした。
ルスランさんとその妻の身元保証人になることをすぐに決めた葛西さんたち。日本での生活も支えていくとルスランさんに伝えました。
孝久さんは、ルスランさんたちが到着するまでの間、知り合いの人材派遣会社に問い合わせ、日本語が話せなくても就くことのできる仕事を探し始めます。
日本に到着してからは、ビザの申請、食料の調達といった身の回りのことを、つきっきりで手伝いました。ルスランさん夫婦が地域に溶け込めるよう、地元の人たちとの交流の機会も作りました。

今ではルスランさん夫婦は、こうした人たちとのつながりが縁で、地元のレストランで働いています。
葛西さんたちが、ウクライナから日本への避難や留学を手伝ってきたのはルスランさん夫婦を含めて、これまでに4人。
助けを求めてくれる人がいる限り、その思いに応えるつもりだといいます。
「僕たちも、ウクライナの人たちなどによくしてもらったから、その恩返しだと思っています」(孝久さん)
今でも大切な『ありがとう』の思い
葛西さん夫婦は、ウクライナの人たちへの支援を本格化させようとみずから一般社団法人を立ち上げて、ホームページでウクライナの現地情報を発信するとともに、寄付を募っています。
その団体の名前は「ジャクユーサポート」。
ウクライナの人たちへの感謝の気持ちを込めて、ウクライナ語で「ありがとう」を意味する「ジャクユー」を名前に使いました。

また、葛西さんたちは、軍事侵攻が続くウクライナに少しでも関心を持ち続けてもらおうと、地元の学校や公民館などで自分たちの体験を話す講演会を続けています。
ただ、以前は40人以上集まることもありましたが、8月の講演会に訪れたのは8人。寄付の申し出も一気に減っているといいます。
それでも、葛西さんたちは、自分たちにできることを続けていきたいと、前を見つめています。
「ウクライナで暮らしていたときにサポートしてもらったこと。避難する中で助けてもらったこと。そうしたことへの感謝は、ずっと忘れません。この思いを大切にして、少しでもウクライナのためになることをしていきます」

「ジャクユーサポート」のホームページはこちらから(NHKのサイトを離れます)