ターニングポイントはいつ来るかわからない。だから常に全力で生き続けなければいけない

新田佳浩

パラクロスカントリースキー

新田佳浩、41歳。パラクロスカントリースキーの「レジェンド」とも呼ばれる日本の絶対的なエースは、どんな大会でも、どんな練習でも決して手を抜かないのが信条だ。

パラリンピックには1998年の長野大会から7大会連続で出場し、3つの金メダルを獲得。20年以上日本代表をけん引してきた新田が、集大成と位置づけたのが北京大会だった。個人種目の最高は7位だった。新田は涙を浮かべながらもその表情は、すがすがしかった。

「これまで両親や家族、いろいろな人に支えられているということをあらためて感じられる大会だった。これからどういう立場になるかはわからないが、諦めることなく100%を出し続けることに変わりはない」

新田の競技人生にはさまざまなターニングポイントがある。
3歳の時、祖父が運転する農機具に巻き込まれ左手を失った。その後、クロスカントリースキーを始めた新田の、競技へのモチベーションは祖父への思いだった。

「左腕のことで責任を感じていた祖父が心の苦しみから解放されるようにメダルをかけてあげたい」

2010年のバンクーバー大会で2個の金メダルを獲得しその思いをかなえた。しかし、その2年後に祖父が亡くなると新田は目標を見失ってしまう。

練習に身が入らず2014年のソチ大会ではメダルに届かなかった。

「何のために競技を続けるのかわからなくなり精神的に苦しくなった」

苦しむ新田にとって、次のターニングポイントとなったのは家族の存在だった。不本意な成績で終わったソチ大会から帰国した空港で、長男は厚紙で作った手作りの金メダルをプレゼントして出迎えてくれた。

2018年のピョンチャン大会では、留守にする18日間にあわせて妻の知紗子さんが18通の手紙をしたため「やりきって笑顔で家族のもとに帰ってくるのを待っているよ」とエールを送った。

そのピョンチャン大会で新田は金メダルを獲得。
家族の思いに応えてみせた。

集大成と位置づけた北京大会では、メダルには届かなかったものの、新田の顔には充実感が浮かんでいた。

「パラリンピックとクロスカントリースキーから学んだことは、ターニングポイントはいつ来るか分からない。だからこそ常に全力で生き続けなければいけないということ。永遠に続くものではない競技人生だからこそ今まで充実した時間を過ごせたと思う」

そして、新田の目線は次のターニングポイントの先を見据えていた。

「日本のノルディックチームが7大会連続でメダリストを輩出するということは達成できた。チームとして今後、若返りを図っていく中でクロスカントリ-スキーの魅力や楽しさを障害がある人に伝えていきたい」

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