焦ってもしょうがない。できることをやる

鈴木孝幸

パラ競泳

パチ、パチ、パチ…。左手の3本と、右腕に残された1本の指で、器用にパソコンを操る。 パラ競泳の鈴木孝幸。延期された東京パラリンピックの開幕まで、まもなく1年となる8月のある日、その姿はプールではなく、パソコンの前にあった。
鈴木は、パラリンピックに4大会連続で出場。北京大会では金メダルを獲得した。これまでに合わせて5つのメダルを獲得しているトップパラアスリートだ。 7年前からイギリスを拠点にし、トレーニングのかたわら大学院生としての顔を持つ鈴木。修士論文の執筆のためパソコンと向かい合う日々を過ごしていた。

「取材を受けている暇もないくらい忙しい」。そう冗談めかして笑う横顔には、地元開催のパラリンピックで金メダルを獲得しようという気負いのようなものはかけらも感じなかった。 新型コロナウイルスの感染拡大でイギリスの強化拠点のプールは閉鎖され、日本への帰国を余儀なくされた。そして、その直後に東京パラリンピックの延期が決定。想像できないような困難に直面しても、経験豊かなベテランは動じない。あくまで自然体だ。

「4年間かけて目標にしていたものが1回なくなるわけだから、もちろん残念だが、自分が変えられるものではないから。その状況に合わせていくしかない」

その鈴木の真骨頂とも言えるのが、自粛中に始めたという4本の弦による弦楽器の演奏だ。

左手の指1本で弦を押さえればコードを鳴らせることから「自分でも弾けるんじゃないか」と手に取ったと言う。弦をはじく右手がない鈴木は、ペットボトルを切り抜いてその先にピックを固定させる器具を手作り。器用に楽器を弾いてみせた。なぜ、いま楽器なのか?その答えはシンプルだった。

「自粛しなくてはいけないからこそ、できることをやろうと思った。来年まで1年間頑張り続けるのはたぶん無理なので、今はそういう時期だと考えている。焦ってもしょうがない」

修士論文も楽器の演奏も鈴木にとっては『今、できること』。新型コロナウイルスの影響で『できること』が限られる今だからこそたどりついた境地だ。その考えはトレーニングにもあらわれている。両手両足に障害があるため、ランニングや自転車などの有酸素運動ができない鈴木は、プール以外では心肺機能の強化ができない。プールでの練習ができるようになり、自粛期間中に落ちた体力を戻すため、持久力強化のメニューをこなすところからトレーニングを再開した。今できることを大事に、焦らず進む。その先は、パラリンピックの表彰台の頂点につながっている。

「選手としておそらく最後のパラリンピックになると思うし、自国開催のパラリンピックは初体験になるので、存分に味わいたい。東京パラリンピックで金メダルが取れるようしっかり準備をして臨む」

そう話した表情は、あくまで自然体だった。

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