いいショットをしても変なところへ行く場合はある。でもそこから一生懸命やらなきゃ

杉原輝雄

ゴルフ

どんな状況に陥っても、全力を尽くしてプレーする。それこそが、杉原輝雄の生き様だった。
2011年、74歳でこの世を去った杉原。プロゴルファーになったのは「お金を稼いで親孝行したい」という思いからだった。20歳でプロテストに合格し、初優勝はプロ5年目の「日本オープン」。小柄な体で飛距離は出なかったが、豊富な練習量に裏打ちされた卓越した小技と粘り強いプレーで優勝を重ねた。海外やシニアの大会も含め50年以上のプロ生活で通算63勝をあげた。
勝負にとことんこだわる姿勢から「まむしの杉原」という異名もあった。

「負けたら、やっぱり倍、3倍返さないと気が済まない。
そういう負けず嫌いいうか、その悔しさいうのは本当に持っている。
悔しさが無くなったら終わりやから。少しでも前行こう、前行こう」

がんと闘いながら「生涯現役」にこだわり続けた。
60歳の時に前立腺にがんが見つかったあとも、ゴルフのために体力を落としたくないと手術は受けなかった。2006年、68歳の時には国内レギュラーツアーの最年長通過記録を更新。そのうえで自分の年齢以下のスコアでプレーする“エージシュート”達成を目標にかかげた。
2008年、がんがリンパ節に転移していることが判明。そのオフ、放射線による治療を集中的に受けたが、副作用のあまりのつらさに治療を中断、ゴルフを続けた。

「いくらいいショットをしても、変なところへ行く場合はある。でもそこから一生懸命やらなきゃ。病気に負けたことになる。自分で選んだ結果だから、そこはもう前向きにやっていかなしゃあない。なったところ、行ったところ、病気になったところ、そこからまた自分を大事にしていくというか、一生懸命やらないと損ですからね。行ったところ行ったところで一生懸命やることを求められる。そういうことをゴルフに教えてもらった」

杉原が50年以上に渡って連続出場した国内ツアー「中日クラウンズ」。
2009年の大会は、初日から深いラフと、硬い高速グリーンに苦しめられた。9番から15番まで7ホール連続ボギー。エージシュートどころか予選通過も絶望的な状況だった。
それでも杉原は決して下を向かなかった。
16番パー4。第2打でピンそば1.5mにつけて、この大会初めてのバーディーを奪ったのだ。あきらなかったからこそめぐってきたチャンスだった。

「どこまでいっても必死さ、生きるためのこの世に生まれた大事さいうのを大切にして一生懸命やっていれば、奇跡っていうのも起こる可能性はあるんやからね。僕のエージシュートと一緒ですよ。諦めたらだめでしょ。最後まで必死に戦った負けには大きな価値がある」

あるツアー大会。ラウンド前のバンカー練習を終えたあとだった。片手でレーキを持って砂をならす若いキャディーを見かねた杉原が、「貸しな」と一言。両手でレーキを持って、しっかり腰を入れて丁寧に砂をならしはじめた。試合中、ティーグラウンドに折れたティーが落ちていれば、だまって拾って自分のポケットへ入れた。プレーが遅くならないよう、ラウンド中は走って移動することもしばしば。クラブハウスに戻ると疲れも見せずファンのサインに応じた。
あとにプレーする人が、気持ちよく楽しくゴルフができるように。そしてもっともっと多くの人にゴルフを好きになってもらいたい。そう思い続けた人だった。

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