今出せる力が、今出せる自分の限界

三宅宏実

ウエイトリフティング

夏のオリンピックで、日本女子の最多に並ぶ5大会連続のオリンピック出場を果たした三宅宏実。36歳の誕生日に行った引退会見で見せたのは涙ではなく満足感があふれた表情だった。

「飽き性なので何事も続かないが 唯一、この競技だけは飽きずにのめり込んで、21年間継続することができた。大好きな競技を長く続けられたことはすごく幸せな時間で、無我夢中で競技人生を送ることができた」

中学3年生(15歳)で競技を始めた時、メキシコオリンピックの銅メダリスト、父の義行さんから2つの条件を出された。
1つはオリンピックでメダルを取ること、そして絶対に途中で投げ出さないことだった。

2012年のロンドンオリンピック。3回目の出場となった大舞台でウエイトリフティングの女子では日本選手として初めてのメダル、銀メダルを獲得。偉大な父から出された1つ目の条件をクリアした。
続くリオデジャネイロ大会でも銅メダルを獲得したが、東京大会までの道のりは想像以上に厳しかった。
持病の腰に加えて両足のけが、十分なトレーニングが積めず大会の欠場や棄権が相次いだ。

それでも三宅は父から出された2つ目の条件を守り、決して諦めることはなかった。

「ダメかなと思うことが何度もあったが、家族や私と関わってくれたすべての人たちの支えや応援が力となり、頑張り続けることができた」

二人三脚で競技人生を歩んできた父・義行さんの存在は特別だったという。

「ぶつかることもたくさんあったが、つらい時は、今、自分には何ができて何ができないのかを一緒に考え、今できることを精いっぱい頑張ろうという前向きなことばで支えてくれた。さまざまな試練を乗り越えるきっかけになったし、感謝の気持ちでいっぱいだ」

代表入りさえ危ぶまれた中、けがと戦いながら満身創いの体で何とかたどりついた東京オリンピックの大舞台。
現役選手として最後の大会は記録なしに終わったが、三宅に悔いはない。

「今出せる自分の力が、今出せる自分の限界だと納得した大会だった」

義行さんは、中学生の時に出した2つの条件を20年以上も守り続けた娘をねぎらった。

「リオデジャネイロ大会から東京大会までは、続けるか続けないかは本人の意思。辞めると言ったらそれでいいし、続けると言ったら支援していくという状態で戦った。この5年間、“引退”という二文字を背に戦ってきた。21年間、よく壊れずにもったと思う。本人が一番、この競技が好きだったんじゃないか」 (三宅義行さん)

引退会見のわずか2日後、全日本選手権の会場に姿を見せた三宅。所属先のコーチとして新たなスタートを切り、選手の試技を見守った。

「指導者としてはまだまだ未熟だが、選手の成長とともに、私自身も自分を高めていきたい。次のステージへの新しいチャレンジとして頑張っていきたい」

立場は変わっても、三宅は自分の信じた道を突き進んでいく。

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