財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする

野村克也

野球

2020年2月11日に84歳で亡くなった野村克也。プロ野球の4球団で監督を務め、数多くの選手を育てる中で、たどり着いたことばがある。

「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」

明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の名言を野村は大切にしていた。財産を築いたり、仕事で業績をあげたりすること以上に、人を育てることは難しく、それゆえ価値があるという。指導者として大切にしていたのは “選手の個性を見極めることの大切さ”だった。

「見つける、育てる、活かす、じゃないの。9つのポジションでいろいろな条件があるから、その条件に合うか合わないか見つけるのも監督の仕事」

“野村マジック”とも呼ばれた育成手腕。中でも周囲を驚かせたのが、阪神の監督時代、新庄剛志への指導だ。

打撃が低迷していた新庄にピッチャー挑戦を指示。肩の強さが売りだった新庄に、自分の素質と可能性に気付いてほしいと考えた。

「チャレンジ精神がなくなったら人生終わりですよ。『新庄、二人三脚でなんとか成功させような』という思いがあるわけですから」

マウンドに立った新庄は、140キロ台の速球でバッターを打ち取る。この年、打撃成績を大きく伸ばし、主力として活躍した。

「人間のいいところは、どんな可能性があるのか、その可能性を引き出す、見つけることが人生そのもの。(選手が)持って生まれたものだから、それを発揮したらいい。そういうのを見抜いてやるのも監督の手腕のひとつ」

選手の将来性を考え、あえて突き放すこともあった。楽天の監督時代、当時入団3年目だった田中将大は、2か月間勝利から遠ざかるなど、大きな壁にぶつかっていた。野村は苦しんでいる田中にあえてアドバイスをしなかった。球界を代表するピッチャーになるには、自分で乗り越える経験が必要だと考えたのだ。

「手取り足取り何もかも答えを出すのは、果たしていいのだろうか。やっぱり自分で考える、自分で答えを見つける。やっぱり耐える、我慢、こういうのができると更に一段と育つ。楽をして、いい結果は得られません」

「人を遺すを上とする」。野村は亡くなる直前まで、このことばを実践しようとしていた。2019年6月、高校球児を指導するための研修会に参加したときのことだった。いつか高校野球の監督になり、甲子園に出場したいという夢を語っていた。

「特に若い人には『夢を持て、夢を持って生きろ』、この一点だけでいいと思う。『若人よ夢を持て』、それで十分だと思う。『俺は大人になったらこうなる』という明確な夢があると、本当に楽しい。俺の経験からいうとそうだ」

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