天皇陛下のあゆみ

天皇陛下は、終戦から15年後の昭和35年(1960)2月23日、上皇ご夫妻の長男として誕生されました。

お名前は徳仁(なるひと)、称号は浩宮(ひろのみや)とされました。親子が別々に暮らすという 天皇家の慣習にとらわれず、上皇ご夫妻の手元で育てられました。

上皇后さまが育児方針を記されたノートは、天皇陛下の名前にちなんで「ナルちゃん憲法」と呼ばれ、話題になりました。

天皇家で初めて幼稚園に通われたのも天皇陛下でした。

昭和53年(1978)、学習院大学に進学し歴史を専門に学びました。

卒業後、皇族として初めて大学院に進みイギリスのオックスフォード大学にも留学されました。

留学中は学生寮で初めて1人暮らしをして洋服選びのほか洗濯やアイロンがけなど、身の回りのことは自分でされました。

帰国後の記者会見では、「自分でものを考え、自分で決定し、そして自分でそれを行動に移すということができるようになったのではないかと思います」と述べられました。

その後、皇太子となられ、平成3年(1991)の31歳の誕生日には新たな皇太子になったことを示す立太子(りったいし)の礼が執り行われました。

平成3年(1991)年2月23日

この2年後の平成5年(1993)、外交官だった、皇后となられた雅子さまと結婚され、結婚の儀式に続いて行われたパレードでは、沿道に20万人近くが詰めかけました。

平成5年(1993)年6月9日

翌年、初めてお二人での外国公式訪問に臨み、中東4か国を回って国際親善に努められました。天皇陛下が、皇太子として公式訪問された国は39か国にのぼります。

サウジアラビア リヤド 平成6年(1994)11月7日

また天皇陛下は上皇さまの外国訪問の際などに国事行為の臨時代行を務められました。その数は23回にのぼり、政府から送られてきた書類に押印する公務などを務められました。

天皇陛下は「国民と心をともにする」という上皇さまのお気持ちを受け継がれてきました。度重なる大災害では上皇ご夫妻と同じように被災地を訪れ、被災した人たちを見舞われました。平成7年(1995)に阪神・淡路大震災が発生すると2か月連続で皇后さまとともに被災地を訪ねられました。

避難所の小学校で 神戸 中央区 平成7年(1995)2月26日

平成23年(2011)の東日本大震災では、皇后さまとともに大きな被害を受けた東北3県を相次いで訪れ、避難生活を続ける被災者を見舞われました。

避難所の小学校で 宮城 山元町 平成23年(2011)6月4日
全国障害者スポーツ大会 東京 渋谷 平成25年(2013)10月13日

また、戦後生まれの天皇陛下は、戦争を経験した人や遺族たちの言葉に耳を傾けることも大切にし、沖縄や広島、長崎を訪れた際などに懇談の機会をもたれてきました。そして障害者スポーツの全国大会の開会式に出席する公務を担うなど、社会で弱い立場にある人たちにも寄り添われてきました。

平成10年(1998)の長野パラリンピックでは、大会の名誉総裁として開会を宣言されました。

また、各地を訪問した際には、子どもや若い世代の人たちとふれあう機会を積極的にもち、日本の将来を担う人たちとの交流も重ねられてきました。

一方、時代に即した新たな公務も模索する中で、水をめぐる問題についての研究にも取り組まれてきました。国内外で水に関する施設の視察などを重ねて視野を広げ、東日本大震災を経験したあとには、皇族として初めて国連本部で講演を行い、過去の災害に学び未来への備えとすることの重要性を訴えられました。

「水と災害に関する特別会合」で基調講演 国連本部 平成27年(2015)11月

また1人の父親として家庭を支えられてきました。平成13年(2001)、41歳の時に長女の愛子さまが誕生されると、天皇陛下は、子育てに積極的に参加されました。

東京 元赤坂の東宮御所で 平成16年(2004)11月

その2年後、皇后となられた雅子さまが体調を崩して療養生活に入られ、天皇陛下はお一人で公務に臨まれる機会が増えました。天皇陛下は皇后さまの回復を支え続け、平成25年(2013)には、11年ぶりにお二人での外国公式訪問が実現し、オランダ国王の即位式に出席されました。

オランダ アムステルダム 平成25年(2013)4月30日

その後も皇后さまは少しずつ活動の幅を広げられ、お二人で公務に臨まれる機会も増えています。

平成30年(2018)7月21日
  • 象徴天皇・公務へのお考え

  • 最近のおことば

  • 天皇ご一家の横顔

  • 譲位の歴史と上皇