
アフリカに住む黒人が奴隷として別の大陸に連れて来られ、形を変えながら何世代にもわたり、その地で受けてきた差別は、金銭などで償うことができるのかー。
この問題に正面から向き合う取り組みが、いま、アメリカで始まっています。
その最前線には、ひとりの日系アメリカ人がいます。彼を突き動かすのは、かつて日系人が黒人たちから受けた恩を、いまこそ返すべきだという思いです。
(ロサンゼルス支局長 佐伯敏)
黒人の中でひとりだけアジア系
「このメンバーのなかでは、わたしはどうしても目立ってしまいます。集合写真を撮れば、いたずらで映り込んだアジア人にしか見えないでしょう」
アメリカ・カリフォルニア州の特別委員会は6月29日、黒人に対する補償のあり方について最終報告書を発表し、記者会見を開きました。

黒人の委員たちが並ぶなか、その日系人は明らかに異彩を放っていました。
彼の名前はドナルド・タマキ。日系3世のアメリカ人で、弁護士です。

彼は次のように続けました。
タマキ弁護士
「日系人と黒人の絆についてみなさんにお話ししたい。これは本当に、わたし個人にも関わることなのです」
競馬場が日系人の暫定収容所に
タマキ弁護士の自宅があるサンフランシスコには、日系人の歴史を知る上で、とても重要な場所があります。
空港近くの大型ショッピングモール。この場所には、かつて競馬場があり、真珠湾攻撃の翌年の1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領による命令を受けて、そのまま日系人収容施設として使われました。
敷地の一角には、去年、完成したばかりの銅像があります。おかっぱ頭の女の子2人が身を寄せあうように立っていて、足下にはボストンバッグや旅行かばんが置かれています。

銅像の脇には、この場所に収容されたおよそ8000人の名前が刻印されたプレートがあります。そのなかにある「ミノル・タマキ」と「イヨ・ヤマシタ」は、タマキ弁護士の両親です。

アメリカで、一市民として暮らしていた日系人たちは、ある日突然、敵性外国人とみなされ、生活の場を奪われ、番号で管理されるようになりました。銅像の少女たちの首には、その番号札がかけられ、日系人が受けた差別の歴史を静かに伝えています。

馬小屋に郵送された卒業証書
タマキ弁護士
「その頃、父はちょうどカリフォリニア大学バークレー校を卒業しました。サンフランシスコにある日本人街の、貧しい家庭で育った人にとっては快挙です」
タマキ弁護士は自宅で家族の写真をみせながら私たちに語りました。

タマキ弁護士
「しかし、卒業式に出席できなかったので、大学は卒業証書を筒に入れて、日系人の収容所となった『競馬場の馬小屋』宛てに郵送しました。アメリカでは、卒業証書はいわば「約束された将来」を示します。糞尿の臭い漂う馬小屋に送られた卒業証書は、まさに当時、父が置かれた不条理な現実そのものです」

タマキ弁護士の両親が経験した収容は、数多くの日系アメリカ人が経験した苦難のごく一部に過ぎません。しかし、こうした国家ぐるみの人種差別について、戦後しばらく、日系人が積極的に語ることはなかったといいます。
タマキ弁護士
「私の両親も、ほかの日系アメリカ人も、自分たちの経験についてあまり話しませんでした。多くの人が家を失い、財産を失いました。仕事も失いました。強制退去から5年ほどがたち、日系人が元の地域に戻ってきたとき、彼らは再び商売を立ち上げることに必死だったのです」

日系人と公民権運動
その後、アメリカでは日系人の連邦議会議員が相次いで誕生し、1970年代後半からは日系人の強制収容に対する補償を求める運動が高まっていきました。日系人社会の取り組みは1988年、レーガン大統領が「市民の自由法」に署名し、日系人に対する補償が実現したことで、一応の決着を迎えました。
こうした動きを後押ししたのは、1960年代から活発化していた黒人による公民権運動だったとタマキ弁護士は話します。

タマキ弁護士
「キング牧師らが主導した1960年代の黒人の公民権運動がなければ、日系人のいまはなかったということです。公民権運動が扉をこじ開け、ほかのさまざまなマイノリティがそのドアを通っていきました」
命がけで自らの権利を訴える黒人達の姿は、戦後、「どうすれば第一級のアメリカ市民になれるのか」を自問してきた日系人たちの目を覚まさせました。これまで“二級市民”のように扱われてきたのは自分たちに落ち度があったからではなく、白人至上主義を背景にした社会の差別構造にあったのではないかと気付かされたのだといいます。

さらに、黒人からの直接の連帯やエールもありました。最も有名なのは1987年にカリフォルニア州選出のデルムス下院議員がアメリカ議会下院で行った演説です。

デルムス議員は、子ども時代に仲の良かった日系人の少年が強制収容所に送られた際の別れのエピソードを紹介したうえで次のように訴えました。
「これはどれだけの期間、収容されたかの問題ではない。たまたま肌の色が黄色で、祖先が日本人だという何千人ものアメリカ市民が強いられた痛みの大きさの問題です。黒人のアメリカ人として、私はアジア系のアメリカ人のきょうだいたちのために、声の限り訴えます」
レーガン大統領による謝罪後、タマキ弁護士の母にも、大統領の謝罪文と、補償金2万ドルの小切手が届きました。

しかし、公民権運動を経ても黒人への差別は続きました。
タマキ弁護士は、今度は日系人が力になる番だ、と考えています。
タマキ弁護士
「奴隷制や、奴隷制の直後ほどではないものの、差別は続きました。人種差別の病理がどのように始まり、社会構造に組み込まれ、さまざまな人種に対する断絶を作っていったのか。それを明らかにすることには意味があるはずです。日系アメリカ人には協力する義務があります」
何世代にもわたる重荷
タマキ弁護士ら特別委員会がまとめた最終報告書は1100ページに上ります。要旨だけでも74ページというボリュームです。

その前半には黒人に対する差別の歴史が、カリフォルニア州だけでなく、アメリカ全体についても包括的かつ詳細に記述されています。また住宅の隔離や教育の不平等など、資産や収入に基づく構造的な差別がいまなお、私たちが生きている社会に続いていることを明らかにしているのが大きな特徴です。そして、州として謝罪を行うことや、補償金の算出方法などを提言しています。
膨大な作業を通じて、タマキ弁護士は黒人が歩んできた苦難の歴史について、あまりにも無知であったことを突き付けられたと言います。
タマキ弁護士
「私はアメリカの歴史に精通しているつもりでした。しかしこの問題に取り組んで2年が経ち、私の知識がごくわずかであったこと、理解しているというには程遠い状態であったことに気付きました」
一方で、特別委員会では黒人の当事者から意見を聞く公聴会がのべ200時間にわたり行われました。

こうしたプロセスに、タマキ弁護士は日系人が補償を勝ちとっていった過程を重ねていました。
タマキ弁護士
「日系アメリカ人が補償の問題を提起したとき、心のなかにあったのは、移民としてアメリカの地を初めて踏んだ祖父や祖母のことです。今回、特別委員会の公聴会でも、出席者は家族のことを語りました。警察に理由もなく職務質問をされたこと、家を借りたり、ローンを組むことを拒まれたりしたこと、白人至上主義者から殺すと脅され、住所を変えざるを得なかったこと・・・。彼らは何世代にもわたる重荷を背負って公聴会に臨んでいました。もちろん、わたしはアフリカ系アメリカ人ではありません。しかし日系人の人権回復や補償問題に取り組んだ私には、彼らの気持ちがわかりました」
人種差別の病理
最終報告書がまとまり、これから報告書をカリフォルニア州の立法や政策として実現していく作業が始まります。特別委員会によると、補償の対象と考えられるのはカリフォルニア州に住む黒人の8割近く。金銭的な補償に必要な予算は、少なく見積もってもカリフォルニア州の年間予算の2.5倍以上です。財源については特定分野の税金を充てることや、基金の設立などが提案されています。
アメリカでは、黒人への補償を実現させた州はいまだありません。黒人に補償を行うことに対して反対の声は大きく、対象となる人数や補償金額が膨大で、「とうてい実現できるわけがない」と言う受け止めも少なくありません。この先もいばらの道が続きます。
タマキ弁護士はいま、日系をはじめアジア系団体を中心に、なぜ黒人に対する補償が必要なのかを、説明して回っています。

地道な作業ですが、タマキ弁護士の訴えに賛同する団体は増え続け、取材した7月の時点ですでに380団体に上っています。さまざまな人種が参加できる枠組みをつくり、今後、声を広げていく予定です。
タマキ弁護士
「わたしたち日系人が収容所に送られたのは、そのはるか前から行われてきた黒人差別を止められなかった結果でもあります。人種差別は歴史のなかで繰り返され、ある時、私たち日系人にもふりかかってきました。これはアフリカ系アメリカ人の正義のためであると同時に、日系人のための取り組みでもあります」
