
「パパ、おなかがすごく痛いよ」
12歳の少年は、そう言って父親の腕の中で息を引き取りました。
6月中旬からの大雨で1700人が亡くなっているパキスタン。
雨はやんだのに、子どもたちをはじめ多くの人たちが「引かない水」によって命を落とし続けています。
(イスラマバード支局長 松尾恵輔)
こんなことになるなんて
「雨はやんだのに、こんな恐ろしいことになるなんて考えてもいませんでした」
パキスタン南部のシンド州に暮らす男性シャナワズさんは、1枚の写真を手にしながら、こう話しました。
写真に写っているのは、家族や親せきの子どもたち5人。

しかし、その中の1人、シャナワズさんの12歳の息子タサワール君は、もういません。
シャナワズさんの腕の中で息を引き取ったのです。
何日たっても引かない水
その地域では、6月中旬以降、大雨が続いて洪水が相次いで発生。シャナワズさんの自宅は、8月後半に雨が激しく降る中、突然倒壊しました。
近くの学校に一時的に避難し、その後も、壊れた自宅の脇、屋根の無い場所で暮らさざるを得なくなりました。
働いていた農場も水没し、仕事も失うことになりました。
昼間は、木陰で暑さをしのぎ、夜は妻と幼い子どもたちとベッドで寝ましたが、屋根はありません。
食べるものが足りなくなっていき、飲み水には濁った水が混ざるようになっていきました。
何より、雨で周辺にたまった水は何日たっても引かず、大量に発生する蚊に悩まされました。
そんな生活をしている中、息子のタサワール君に異変が起きます。
「パパ、おなかがすごく痛いよ」
タサワール君は、急に高熱を出し、体は震え、頭痛や腹痛を訴えるようにもなりました。
近くに設けられた医療キャンプで薬をもらうことができましたが、症状は一向に改善しませんでした。
ある日、症状がさらに悪化していることから、大きな病院に連れて行くことにしました。
しかし、病院までは車で2時間。シャナワズさんは貧しく、車は持っていませんでした。
避難所の近くで通りかかる車に声をかけようとしましたが、待っても待っても車は1台も通りません。
そんな中、どんどん弱っていくタサワール君。
泣きながら周囲を走り回って車を探しましたが、結局見つけることはできませんでした。
タサワール君を見ると、呼吸が弱くなっているのがわかりました。
「パパ、おなかがすごく痛いよ」
抱き上げたタサワール君は、最後にこう言って、息を引き取りました。
その後、自宅を訪れた医師からは、蚊に刺されたことでマラリアに感染して死亡したとみられると告げられました。

「息子のことばかり思い出して、それ以外のことを考えることができないのです。稼ぎは少ないですが、そのすべてを彼の教育に充て、立派な大人になってもらおうと思っていたのに」
「死と破壊の第2波」
タサワール君が感染したとみられるマラリア。今、パキスタンのシンド州では、大勢の人たちに感染が広がっています。
シンド州当局によると、これまでに30万人以上がマラリアに感染したと疑われるほか、下痢の症状を訴える人も、70万人に上っています。
こうした病気で亡くなった人は345人。(数字は2022年10月3日時点)
国連の担当者は、10月に開かれた記者会見で「死と破壊の第2波が来ている」と表現しました。
マラリアなどの蔓延という「第2波」の被害。
その原因である「第1波」は、これまで経験したことのないような大雨による破壊です。

パキスタンでは6月中旬からシンド州をはじめ各地で大雨が降り続き、洪水も相次いで発生。
死亡した人は1700人に上り、全半壊した家屋も200万棟を超えています。国内にある160の行政区のうち80の地域が大きな被害を受け、閣僚の1人が「国土の3分の1が水没した」と表現するほどでした。
しかし、今のシンド州を悩ませているのは「引かない水」です。
9月になってから雨量は減りましたが、2022年の雨季の雨量は、例年の8.3倍にも上っています。海抜が低く平地が広がっていることもあって、10月になっても水が引かず、雨水がたまり続けています。

広がる畑の中に排水する場所を作る必要がありますが、土地の所有者などとの調整は難しく、ある政府関係者は「排水したくても、排水する場所がない」と漏らしていました。
「感染はさらに拡大する」
こうした中、シンド州では、衛生環境の悪化によって今もマラリアなどの感染が拡大していて、医療現場はひっ迫した状態になっています。
その地域にある1つの病院を取材させてもらうことができました。
病室に入ると、たくさん並んだベッドの1つに、ぐったり横たわる赤ちゃんがいました。隣には、付き添う母親の姿も。
赤ちゃんは生後8か月の女の子で、洪水のあと高熱を出して病院に運び込まれ、マラリアの疑いがあると診断されましたが、体調が改善しないのだといいます。
すると突然、母親が大きな声で涙を浮かべながら赤ちゃんの名前を繰り返しました。医師たちが駆け寄り、心臓マッサージも始まりました。
しかし、まもなくして死亡が確認されました。
この病院の小児科病棟には50床のベッドがありますが、病院ではその3倍の150人ほどの子どもたちを受け入れているといいます。
その多くはマラリアの疑いがある幼い子どもたち。少しでも多くの子どもたちに治療が行えるよう、1つのベッドに2、3人の子どもたちを寝かしているのだそうです。

病院にいる母親たちに話を聞くと、口々に厳しい状況を教えてくれました。
「洪水のあと、汚れて泡立つような水を飲むほかなく、息子が体調を崩したのですが、回復しないんです」
「家で待っている子どもたちにも、全員マラリアのような症状があります」
一方で、治療に当たる医師や看護師が働く状況もひっ迫しているといいます。
マラリアなどに感染する医師などもいて、市民の感染者が増える中、人手が不足しているのだそうです。

「マラリアだけでなく、下痢、皮膚病、デング熱とさまざまな病気に感染する人が増えています。感染はさらに広がるでしょう。この病院には薬が十分ありますが、治療にあたる人が不足しているのです」
なぜ、水が引かないほどの大雨が
いつまでも引かない水によって、経済や農業などにも大きな影響が出ています。パキスタンでは3万8000㎢の農地が浸水したとみられています。
主食は米や小麦ですが、田んぼの稲は洪水で傷み、秋以降に種まきが始まる小麦も、水が引いて畑が乾燥しない限り、育てることはできないといいます。
しかし、なぜ水が引かないほどの大雨が降ったのか。
パキスタンの気象当局の担当者に話を聞くと、気候変動の影響を指摘しました。
「この地域のモンスーンは、毎年さまざまな傾向を見せることはありますが、長年見てきてもこのような大雨が降る事態は起きていません。原因は、気候変動しか考えられません」
そしてパキスタン政府も、2022年に国内で相次いでいる、熱波、干ばつ、北部にある氷河の融解といった現象を理由に挙げて、温暖化の影響がある可能性を示しています。
取材に応じたシェリー・レーマン気候変動相は、気候変動の影響を強く受ける国に対して、国際的な支援がもっと行われるべきだと訴えています。

「地球温暖化は、パキスタンが引き起こしたものではありません。化石燃料を燃やして豊かになったわけでもありません。それなのに、なぜ、私たちが『自然との闘い』に向き合わなければならないのでしょうか。今こそ、気候変動がどのような事態を引き起こしているか、世界の人たちは理解するべきです。そして、大きな損害に直面している国への補償の仕組みを考えてほしいのです。気候変動の影響は世界のすべての人たちに起きるのです。パキスタンで起きたことは、ほかの場所でも起きかねないのです」
誰の問題なのか
国連によると、世界の温室効果ガスの排出量のうち、約8割を主要20か国(G20)が占めるということです。
こうした数字を見ると、パキスタンのレーマン気候変動相の訴えの切実さが伝わってきます。
温室効果ガスを大量に排出する国々は、それをいかに抑えていくのか。そして、異常気象による被害、奪われる命をどう食い止めていくのか。
いったいこれは誰の問題なのか。私たちひとりひとりに問いかけられています。
