粉骨砕身の覚悟でやってきた

藤川球児

プロ野球

2020年9月1日。阪神の藤川球児はシーズン中盤に異例とも言える引退会見を行った。40歳のベテランは、その理由をNHKの単独インタビューで明かした。

「チームを鼓舞したかった。まだ優勝をあきらめていない」

藤川は1999年に高知商業からドラフト1位で阪神に入団。6年間は目立った成績をあげることはできなかったが、中継ぎに転向し才能が開花。2005年、ウィリアムス、久保田智之とともに「JFK」と呼ばれるリリーフ陣の一角を担い46ホールドをマークしてリーグ優勝に貢献した。その後は抑えに。「火の玉ストレート」とも呼ばれる、打者の手元で浮き上がるような速球を武器に球界を代表する抑えピッチャーに成長。2007年と2011年には最多セーブのタイトルも獲得した。

「簡単に三振が取れるし、自信のある時期もあった。自分でも『なんだこのボールは』と思っていた。ストレートは生きていく指針になり、脇目も振らず頑張れたのはストレートがあったから」

2013年、藤川は大リーグに移籍。しかし右ひじの手術などの影響で、3年間でわずか2セーブと結果を残せなかった。帰国後は、独立リーグの高知ファイティングドッグスに所属。阪神への復帰は2016年だった。
そして2019年シーズン。再び抑えを任され、16セーブをマーク。チームのクライマックスシリーズ進出に貢献した。そのオフ、藤川は次のシーズンを見据えていた。

「自分としては最後まで抑えとしてチームを勝たせるのが最大のモチベーション。自分が持っている力を使ってもらって、みんなも頑張って向上して、やっぱり勝ちたい。とにかく日本一になりたい」

しかし、2020年シーズンは右肩や肘のコンディション不良に苦しんだ。思うような活躍ができない中、藤川は引退を決断。会見では時折涙をこらえながら思いを語った。

「体の状態がおかしいと感じ、1年間、体の準備が整わないのはプロとして失格だと感じた」
「いつ潰れてもいいという粉骨砕身の覚悟でやってきた」

その後、ことばに詰まり1分以上顔を伏せて涙をこらえた。

「僕はそんなに強くない人間だが、前向きであり続けたことがよかった」

「思い出はあるけど、これからもっといい思い出が出てくるかもしれない。自分のモットーは前へ、前へ。きょうよりも明日がもっといい日になる気がしている」

応援してくれる人たちのために、シーズンの最後まで戦い抜く姿を見せる覚悟を示した。

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