野球が好きなまま終われてよかった

松坂大輔

野球

“平成の怪物”松坂大輔が23年間のプロ生活にピリオドを打った。

「選手は長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願ってると思うんですけど…。きょうという日が来てほしいような、来てほしくなかったようなそんな思いがありました」

2020年、首の痛みや右手のしびれをおさえるための手術を受けた。
そして、復帰を目指して2021年春に行ったブルペンでの投球練習。そこで異変が起きた。打席に立った右バッターの頭付近にボールがいったのだ。この1球でボールを投げるのが怖くなったという。

「そんな経験は一度もなかったので、自分の中でのショックがすごく大きくて。時間はもらったんですけど」

症状がおさまることはなかった。

「なかなか右手のしびれ、まひの症状が改善しなかったので、もう投げるのは無理だなと。それで辞めなきゃいけないと、自分に言い聞かせた」

アメリカに住む家族に引退する考えを伝えた時の心境を話すと、ことばにつまり、涙があふれた。

「一言で言ってしまえば簡単なんですけど、感謝しかない。本当に長い間、我慢してもらったなと思いますね」

松坂は1998年に横浜高校のエースとして甲子園で春夏連覇を達成。ドラフト1位で西武に入団し1年目から3年連続の最多勝など数々のタイトルに輝いた。2007年からは大リーグ・レッドソックスなどでプレーし、ワールドシリーズで日本投手として初めて勝利投手にもなった。華々しい成績をあげた一方で、酷使した体は悲鳴をあげた。
たび重なるけがに手術。リハビリをして過ごす日々も長くなった。心身ともに追い込まれながらも、野球に向き合えたのは、子どもの時からの野球への思いだった。

「僕だけじゃなくて、ほかにもけがをしている選手、なかなか結果が出ない選手、いると思うんですけど、その時間っていうのはすごく苦しいんですよね。周りの方が思ってる以上に。でも僕の場合は、野球を始めた頃から変わらない野球の楽しさ、野球が好きだっていうことを、そのつど思い出して、なんとか気持ちが消えないように戦っていた時期はありますね。どんなに落ち込んでも、野球が好きなまま終われてよかったです」

日本球界復帰後は、なかなかマウンドに上がることができず、厳しい声も上がった。

「諦めの悪さをほめてやりたいですね。もっと早く辞めてもいいタイミングはあったと思いますし。思ったようなパフォーマンスが出せない時期が長くて、自分自身苦しかったですけど、その分、たくさんの方に迷惑をかけてきましたけど。よく諦めずにここまでやってきたなと思います」

諦めない一番の原動力となったのが夏の甲子園準々決勝、PL学園との伝説の延長17回の試合だ。

「すべてがそういうわけではないですけど、諦めなければ最後は報われると、それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べると」

引退登板は5球すべてがストレート。球速は120キロに届かなかった。それでも「すべてをさらけ出す」と、代名詞のワインドアップから投げ込み、けじめをつけた。試合終了後、マウンドに戻り、そっと手を置いて、自身が戦ってきた場所に感謝の思いを伝えた。

「野球を始めた頃からそのワインドアップの姿がかっこいいと思って続けてきたことですし、それは最後までワインドアップで通せてよかったと思います。ああいう状態でマウンドに立ちましたけど、本来立ってはいけないと思ってましたし、立てるような体の状態じゃないと自覚はしていましたが、ああいう姿でも最後投げるところを見せられてよかったと思います」

野球