濁流にのまれた孫娘を水中から救出 その時【被災地の声 22日】

「これはダメだ」

地震のあと、自宅前を流れる川の水面が盛り上がって一気に寄せてきた濁流。

頭の高さを超える水につかりながら、一緒にいた小2の孫娘の姿が見えなくなりました。

「死なせてたまるか」

能登町白丸地区の男性が、その時の様子を話してくれました。

能登町白丸 濁流にのまれた祖父と孫

坂元信夫さん(67)は能登町白丸地区の自宅で、妻や帰省していた娘夫婦と3人の孫と過ごしていたときに地震が起きました。これまで経験がない強い揺れでした。

自宅は海から50メートルほどの場所です。

すぐに自宅の裏にある高台に避難しようと、3人の孫と車が置いてある自宅の横の小屋に向かったところ、目の前に見たことがない光景がありました。

自宅の前を流れる川の水面が、盛り上がっていたのです。

坂元信夫さん
川の水面がダーっと盛り上がって、津波が来た。これはダメだと思って避難しました。

小2の孫娘の姿が…

左が逃げ込んだ小屋 右が自宅

とっさに小屋の物置に4人で身を寄せました。

物置の扉も閉めましたが、濁流は扉を破って頭の高さを超えてきたということです。

なんとか地面に足を付けてあたりを見渡すと、小屋の中は水でいっぱいで、中学2年と小学6年の2人は水面に顔を出していました。

中2と小6の孫はどっかにつかまって顔を出していたんですけど、小2の女の子が姿が見えなかった。これはダメだと思って。

助けたい一心で水面を探し、必死で水の中を手探りで探すと、左手に衣類のような感触を感じました。

「これだ」

あわてて引き上げると、小2の孫娘でした。

ぐったりとして意識がありませんでした。

棒の先が濁流が来た位置

「死なせてたまるか」

坂元さんは水の中に立ったまま抱きかかえるようにして人工呼吸をしたり、頬をたたいたりしながら名前を呼びました。

すると、まぶたが開いて目を覚ましたということです。

その後、坂元さんは孫娘を抱えて小屋の窓から外に出て、ほかの2人と一緒に自宅の裏の坂道を駆け上がりました。

妻や娘夫婦も高台に避難していて、家族全員助かりました。

一方、小屋は完全に壊れ、自宅も大きな被害を受けたということです。

坂元さん
もう「死なせるわけにいかない」「死なせてたまるか」という一心でした。津波の怖さを痛感しました。こんなにひどい、強い津波なんだなと思って。

今後の見通しは全然立っていません。この屋敷内のがれきを片付けって言われても到底無理ですよ。

珠洲市三崎町 「合言葉」が救った命

一方、住民たちが平時の備えを生かしたことで、全員の命が助かったという地区もありました。

能登半島の先端に近い珠洲市三崎町寺家。

約40世帯が住むこの地区には、地震発生後まもなく津波が押し寄せ、海沿いに建ち並ぶ住宅が被害を受けました。

寺家下出地区の区長、出村正廣さん(76)によりますと、最大13.5メートルの津波の被害想定があるこの地区では、高台の集会場を避難所とし、ある“合言葉”を共有。

毎年欠かさず避難訓練を行い、地震の際の行動を確かめていたということです。

出村正廣さん
なにかあったら集会場」。これがみんなの合言葉ですよ。自然に皆さんに根付いていたんかなと思いますね。

この階段の上が集会場

高台にある集会場に向かうこの階段は、東日本大震災の後、避難ルートのひとつとして市に要請して設けられたものでした。

住民たちは今回の地震でこの階段を使うなどして集会場に移動し、難を逃れました。

出村さん
なんともなしにやっとった訓練が、こんなに大事なもんやと思わなんだ。その意識が生きて、声かけしたりして、誰も犠牲がなかった。

「近所で声かけあって階段へ」

階段で集会場へ避難し助かった1人、竹内信子さん(53)です。

竹内信子さん
地震のときはもうダメだと思いましたが、何とか命を取り留めました。男性の方から「大津波警報、お姉さん早く逃げて」と言われて。そこで必死に走って、逃げてきました。

地震で自宅は倒壊しましたが、体は動かせる状態でした。

自力で脱出すると、近くにいた男性の声かけを受け、階段をかけあがったということです。

自宅に津波が押し寄せたのはそのすぐ後のことでした。

竹内さん
地震が来たらすぐに集会場に上がってくださいという訓練を毎年していたので、避難ルートは全部把握していましたし、何かあれば逃げると決めてました。近所で声をかけあって、5、6人で集会場のほうに上がっていきました。訓練がなかったら、たぶん皆さん……ね。そう思います。

「私のこと置いていって」女性を救ったのは

住民どうしの助け合いもありました。

病気で足が悪く逃げ遅れていた40代の女性は、隣人に背負われ集会場へ向かいました。

ふだんから付き合いがあり、女性の妹が助けを求めたということです。

女性の母親
当時私は家にいなかったんですが、子どもたちが言ってました。もう今まで見たことがないほど、海が赤くなって砂になったって。

それで妹のほうが「姉ちゃんだめ、これ危ないから」と言ったら「いいよ私のことを置いていって」と言われたので、そんなことできないと泣きながらお隣に行ったそうです。

振り返ると車が…「担ぐしかない」

女性を助けたのは、区長の息子の出村正幸さん(47)でした。

地震で自室の本棚が倒れて脱出に時間がかかり、みずからも逃げ遅れていたと当時を振り返ります。

出村正幸さん
もう、逃げよう逃げようと言う掛け声が聞こえていたんです。みなさん一斉に逃げ始めてるだろうなというのは聞こえつつも、自分は部屋から出るのが手間取ってしまった。そのタイミングで隣の人が助けを求めてきた。始めは車で逃げようと思ったんです。

しかし、車の鍵を取ろうと戻るときに振り返ると、正幸さんの車は津波に流されていたということです。

すぐ走って、これは担ぐしかないなと。おんぶして集会場に上がったんです。

正幸さんは、すでに津波がひざの下あたりまで来ている中、女性を背負って集会場までの100段ほどの階段を駆け上がりました。

「もしやのために」整備した階段が

正幸さんも、とっさの行動には日ごろの訓練が生きたと語ります。

出村正幸さん
津波は正直くるはずがない、っていうような認識だったんですけど、もしものためにということで階段を整備して、10年以上、年に数回、避難訓練は自主的にやっていたんですね。それが頭にあったので、隣にいる方を背負って、多少急ではあるんですけれども、逃げることができました。

すでに皆さん避難しきっているところで、私たちが1番遅いくらいでした。こんなお年寄りたちこんな早く行動できるのかと、びっくりするぐらい、みんなできるんじゃないかと思いましたね。

女性の母
娘は「信じられないけど、この私をおぶってってくれた。命の恩人だ」って言っています。よくぞ1回も休まずおぶって上がってくれた。必死の思いで逃げてくれなければ、こんなふうに娘が元気におられなかったと思うと……。それだけで、感謝です。

輪島港 津波が港へ 目撃した漁師は

地震の直後、津波が港に向かってくる様子を目撃した人もいます。

輪島市の漁師、中野豊さん(53)は地震が発生したときは自宅にいました。

その後、家族の無事を確認したあと、1.5キロほど離れた輪島港に向かいました。

「漁船を沖合に避難させたい」そう考えたからでした。

中野さんと無事だった船

地震発生から20分ほどがたった午後4時半ごろ港に到着。漁船に乗ろうとしましたが、港の様子は一変していました。

海水が沖合に引いてなくなり、港に停泊していた200隻ほどの船の船底が海底に付いて斜めに傾いていました。

「もうほんなとこおったらダメや」

大津波警報が出されていることに気づいて沖の方を見ると、津波が港に向かって押し寄せてくる様子が見えました。

中野豊さん
引き波と押し波の間隔が速かった。普通ならちょっと時間置いてかなと思うけど、今回は引いてったらすぐ来る。そうしているうちにザーッと引いてく。高さ3メートルぐらいの津波はきとったと思うよ。

もう、どうにもならないと思いましたが、津波は港に近づくにつれて小さくなり、岸壁を越えることはなかったということです。

その後、避難していた息子から港から離れるよう携帯電話に連絡があったことでわれに返った中野さんは高台へ避難したということです。

大津波警報も出て、ここおるときでも余震があって何回か地面揺れたりして電柱も傾いたりしてて。そしたら電話かかってきて、息子に「もうほんなとこおったらダメや」っちゅうたもんでダメやなと思って。

「ダメなことだった」

去年、船を買い替えたばかりで「船を守りたい一心だった」という中野さん。

しかし、海に近づくという行為は危険で、自分の命を最優先に考え、高いところに逃げるべきだったと振り返ります。

中野さん
振り返ってみたら怖いことしたなと思う。東北の震災見て、あんな津波とかテレビで見とるし。そういうことも忘れて船を出そうと思って、ほんとやったらダメなことだった。

「これからのこと考えられん」

地震前はタイヤの場所まで海水があった

地震から数日たったあと、輪島港など能登半島北側の海岸では、複数の地点で2メートルを超えて隆起していたことを報道などで知ったということです。

今は隆起した港のことをはじめ、今後の生活に不安を募らせています。

中野さん
漁師は沖に行って魚とらんと収入ないわけで。失業保険とかも会社員じゃないもんでないし、行って魚とらんと収入ゼロやもんで。どうやってこれから先、生活しようか、だんだん日にちがたってきたらそういうことを思っとるんやけど、どうすればいいか、みんな先のことも分からん状態やわ。

港の施設も壊滅状態で使える状態じゃないもんで。被災していろんなとこ直さんとダメなんやろうけど、先行きが知りたいし、方向性もわからん。これからのことはまだ考えられん。本当に。

消費者の皆さんにおいしいもん食べてもらいたい。ここの海はカニ、たら、ブリ、いろんな魚あるし、季節季節でいろんな魚とっとるし、そういうがも早く復興して、みんなにおいしい魚を食べてもらいたい。

被害を受けた輪島港

被災者の方や支援にあたる方々など「被災地の声」をまとめた記事はこちらです。