
「仕事に行かなきゃいけないから、子どもたちのことを頼んだよ」
高齢の母親の手を握り、生活のため出稼ぎに向かった3人の息子たち。
少しでも稼ぎを増やして家族の暮らしを楽にさせたい。
しかし、そう希望を抱いた3人が帰ってくることはありませんでした。
命を奪ったのは、インドで起きた“今世紀最悪”の列車事故でした。
(ニューデリー支局記者 山本健人 / カメラマン 森下晶 / リサーチャー アビシェク・ドゥリア)
事故で奪われた3人の息子
インド東部にある西ベンガル州の農村で暮らすサバドラ・ガエンさん(68歳)。
2023年6月の列車事故で、一緒に暮らしていた3人の息子を1度に亡くしました。

親思いの自慢の息子たちでした。
「僕たちの家族と一緒に暮らそうよ」
30年前に夫に先立たれ、持病もあって働けないサバドラさんに、3人はやさしく提案してくれました。

しかし、息子たち家族も決して生活に余裕があったわけではありませんでした。
3人の仕事は農作業の手伝いなどの日雇い労働。日当は1人およそ300ルピー、日本円にして500円ほどでした。
それでも、自分たちの家族だけでなく、サバドラさんの生活も支えてくれました。
1000キロ先の出稼ぎに向かう途中に
そして2年前、3人は、南部アンドラプラデシュ州の大都市で、およそ3倍の収入が得られる仕事を見つけてきました。
みんなで暮らす農村からはおよそ1000キロ離れています。息子たちは1年のうちの数か月間、そこに出稼ぎに行くようになったといいます。
あの日も、3人はいつものように、出稼ぎに向かっていきました。

「仕事に行かなきゃいけないから、子どもたちのことを頼んだよ。お母さんも元気で」
これが、サバドラさんが息子たちと交わした最後の会話となりました。
息子たちが乗った列車が、大事故にあったのです。

サバドラさん
「息子たちを亡くして、胸が張り裂けそうです。涙が止まりません。私は体が不自由で、孫の面倒も見られません。将来が不安でも、私には何もできません」
インド“今世紀最悪”の列車事故、なぜ?
サバドラさんの息子たちが巻き込まれた列車事故は、インドで“今世紀最悪”と言われています。
事故が起きたのは2023年6月2日の夕方でした。

事故現場では、線路脇に大破した大きな車両があちこちに横転。まるで地を這う大蛇のように、大きくねじ曲がった線路。近くの学校には、遺体の安置所が設けられ、多くの人たちがせわしなく出入りしていました。
事故はなぜ起きたのか。
鉄道当局などによりますと、インド東部の西ベンガル州から、南部のチェンナイに向かって南下していた特急列車が本線ではないレールに侵入、止まっていた貨物列車に衝突して脱線しました。その際、脱線した車両が前方から来た別の特急列車と衝突しました。
最終的な死者数は295人(当局発表)にのぼり、1000人以上の人たちがけがをしました。
なぜ、補償が出ないの?
事故が起きた現場は、比較的貧しい地域が多い東部と、南部の大都市を結ぶ路線でした。このため犠牲者の多くがサバドラさんの息子たちのような出稼ぎ労働者だったとみられています。
さらに、事故から1か月以上が過ぎるなか、補償をめぐって、大切な家族を失った遺族にとって耐えられないような状況が起きていました。
西ベンガル州の農村で暮らす、シバニ・サルダルさん(25歳)です。

村から集団で出稼ぎに出ていった夫のサマルさん(27歳)が、事故に巻き込まれたといいます。村の仲間で助かった人から、当時夫が一緒に列車に乗っていたと聞かされました。
現場近くで知人が夫と身体的な特徴が同じで、よく似た服を着た遺体を見かけたと教えてくれました。
すでに事故から1か月以上がすぎ、夫からは何も連絡がありません。

生きていてほしい、でも、受け入れざるを得ない現実・・・。
8歳と10歳の2人の子どもがいるシバニさん。苦渋の決断をしました。遺族に支払われる政府の補償金の申請をしたのです。
しかしー
夫の遺体が見つかっておらず、死亡したということを証明できないため、当局からは補償の対象外だと言われました。
シバニさんは、2人の子どもを育てるには厳しい状況だと涙ながらに訴えました。

シバニさん
「夫の死を証明するように言われていますが、証拠がないためできません。常に生活が不安で、どのように生活費や子どもたちの教育費をやりくりすればよいかわかりません」
この事故では、遺体の損傷が激しかったり、身元を証明できるものがなかったりして、犠牲者の特定が難航しています。50人以上の遺体の身元がわかっておらず(7月2日時点)、シバニさんのように補償金が受け取れない遺族も少なくないとみられています。
鉄道大国インドの安全課題は?
路線の総距離が6万キロを超え、世界有数の規模を誇るインド。
鉄道は運賃が安いことなどから、国民にとって重要な移動手段となっています。
しかし、多くの死傷者が出る痛ましい事故はあとを絶ちません。

専門家は、安全管理の課題を指摘しています。

マニ氏
「線路や施設などのインフラ設備の老朽化や、衝突を防止する安全装置の導入が遅れていることなどの課題があります。また、運行本数が多すぎるという問題もあり、限られた時間内に保守や整備作業を終えなければならず、作業を省略する傾向もあると思います」
癒えない悲しみを抱えて
今回の事故で3人の息子を一度に失ったサバドラさん。
玄関先で見送った長男のハランさん(51歳)の顔が忘れられません。

サバドラさんの手を握ったハランさんは、少し涙ぐんでいるように見えたといいます。
私たちのために、無理しなくていいんだよ。あのとき、そう引き留めていれば…。
サバドラさんは息子たちを失った悲しみから立ち直れずにいます。
経済成長が続く中、貧富の格差が深刻化するインド。
鉄道は少しでも豊かな生活を求める貧しい人たちを運ぶ役割を担ってきました。

一方で、安全対策が徹底されないまま、急速に鉄道網の拡張を続けてきたとの指摘もあります。
安全性をないがしろにして、鉄道を運行させてはならない。
原因の究明を徹底し、事故の教訓を安全対策に生かしてほしいと切に願います。 無念の思いで亡くなった295人の命を無駄にしないように。