安東量子さん(福島県いわき市在住・作家)

2021年4月

福島第一原発の事故から10年。未曾有の大事故にさまざまな形で向き合った人たちは、いま、あのときをどう振り返り、これからに向けて何を思っているのか。
原発事故のあと、地域住民とともに身近な食品などの放射性物質を測定する活動を行いながら、住民同士が語り合う場を開いてきた安東量子さんに聞きました。
(取材:科学文化部 長谷川拓)

安東量子さん
福島県沿岸部、いわき市在住の作家。夫婦で植木屋を営む。自身の被災地での営みを繊細な言葉でつづった著書、「海を撃つ」は2019年に出版され、今も静かな反響を呼んでいる。1976年、広島県生まれ。

あのとき

(記者)原発事故の直後はどんな状況でしたか。

A:当時は放射能に対して、もやっとしたイメージがあるだけで、それが具体的にどういうものかもわからない。情報はあるけれど、何を優先的に見ればいいかわからない状況で大変だったのを覚えています。
政府はこう言っているし、専門家もこう言っているし、そうなのかな、本当なのかなみたいな感じで、普通に話していても、放射能の話になってしまうとすごく感情的なやりとりになることが多かったです。
おじいちゃんやおばあちゃんが作ったものを子どもや孫にあげるあげないとか、ご近所の人がくれたものを食べる食べないとか、そういう意味でコミュニケーションがうまくいかなくなってしまいました。
私自身は勉強することで、そんなに極端な事態にはなっていないことがわかり、自分を落ち着かせましたが、世の中的には混乱がどんどん広まっていく感じでした。

(記者)そうした混乱に対して、どうされたんですか。

A:はい。周囲の人間関係がうまくいかなくなってしまうことに危機感を覚えて、人間関係をつなぎ直したいと、事故があった2011年9月には専門家の先生を呼んで勉強会を開きました。
しかし、専門家の説明と住民が求めている情報との間にそごを感じました。地元の人は、放射能が周りにあるなか、どうやって生きていくかを知りたいわけだし、どうやったら取り除けるか、どうやったら防げるかという具体的な手段を知りたかった。
一方で、そうした経験がある先生はいなくて、いわゆるお勉強的な放射能の知識を教える場になりました。
放射能の原理を知ったところで周りの放射能はなくならないので、一所懸命解説はするが、どうしてもかみ合わないところなのだと思いました。

(記者)そうしたそごを解消するためにどんな活動をされたのでしょうか。

A:知人から声をかけられて、福島第一原発から30キロ圏内にあるいわき市末続地区の住民をサポートするようになりました。
この地区では、一時、政府による屋内退避の指示が出されたこともあって、地元の人たちの多くは最初は雰囲気が暗く、戻って暮らしてはいるものの、本当に安全なのか確信が持てないでいました。
政府の支援もほぼ入らない状況で、自分たちが置き去りにされている感じが強かったのだと思います。
そこで、市民グループを立ち上げて始めたのが、放射能の測定です。
まず外部被ばくの測定から始め、そのうちに内部被ばく、そして、住民が持ち込んだ作物などの測定と、時間をかけて一つずつ測っていきました。

(記者)測ることでわかってきたことはありましたか?

A:測定した放射線量は、健康リスクの面からは低いものの事故前よりは高い値でした。
リスクが低いというのは、説明すれば大体の方はわかるのですが、原発事故がなければなかったものだという不条理感や不公平感はどうしても残るところがありました。
数字が低いからといって、心の中のもやもやとしたものが消えるわけではなくて、一緒に考えていきながら、悩むとかそれぐらいしかできないけれども長く付き合うなかで、自分の中で折り合いをつけるとか、消化していけるものもあったのかなと思っています。
この8年間の活動で、末続地区の方々は、放射能についても、心配だったら測ればいいんだよと、あっけらかんと普通に話ができるようになったので、少し、お手伝いができたのかなという実感はあります。

いま

安東さんたちのこうした活動は、生活の質を回復するため住民が主体的に対策に参加する仕組みとして、各国の放射線の専門家で作る「ICRP=国際放射線防護委員会」が2020年、福島の原発事故の教訓を踏まえてまとめた新しい勧告にも盛り込まれました。
さらに、安東さんは、原発事故後の福島の状況に関心を持つ人たちが集い、それぞれの現状を共有して意見を交わす場、「ダイアログ(=対話)」にも2011年から参加し、2016年からは自身で運営を行うようになりました。

(記者)事故や地域の復興に関心を持つ人たちが意見を交わす場「ダイアログ」はどんなものなのですか?

A:はい。地元の住民や専門家、海外や行政の方などいろんな立場の人が集まっています。それだけに新鮮な気づきを見つけることができる場所です。
「除染」について取り上げた回では、あまり放射線量が高くなく、除染の対象外になってしまった地域の女性が、仲間と一緒に自分たちで除染をして、『なんと気持ちが晴れ晴れしたことでしょう』と話しをされました。
それまで私は、放射線量が高くない地域の除染は必要性が低いと考えていましたが、この方にとって除染がそれだけ大きい意味を持っていたのだと、気づかされました。
一方で、除染で出た廃棄物が運び込まれる先の中間貯蔵施設の地権者からは、みんなの視界から除染で出た廃棄物の黒い袋が消えたとしても、その廃棄物は、われわれのふるさとがあった場所に運ばれたのだということを覚えておいてほしいと言われました。
除染をして欲しいという方の気持ちもわかる一方で、それを受け入れる側があって、対話の中でまったく違う立場の人に来てもらって話をしてもらいました。
どちらの思いも本当にその通りで誰かが否定できるようなものでもないし、どうしようもないところもあるが、ただ、そういう話はしっかり聞いていかないといけないと思いました。

これから

(記者)今後はどのようなことに力を入れていきたいと考えていますか。

A:これまでの対話の活動をわかりやすい形でまとめて記録していきたいと考えています。
福島の地元の人たちがどんな風に思っていたか、どんな風に感じて、何が問題だったかすごく残りにくいと感じているからです。
行政が復興の計画を立てているのは知っているし、その通り進んでいるのも知っていますが、空回りはどうしても感じてしまって、もう少し自分の意見を聞いて欲しいとか、ここをこうして欲しいという声が全部はねられてしまう。
そうして、どんどんこじれて行っているというのは対話の記録を読み返していても感じるし、それは現在進行形でもっと強くなっている感じを受けます。
専門家の人は論文を書いてたくさん残し、歴史を作っていきますが、地元の人たちが考えていることは論文という形式では非常に残しにくい。
意識して地元の人たちの声を残せるような形にしていかないと、歴史というものの中からストンと無くなってしまう気がして、福島の場合はこうだったんだともっときちんと残せるようにした方がいいと思っています。

取材後記

安東さんのグループによるいわき市末続地区での測定の活動は、原発事故のよくとしから週に1回、2020年3月まで、およそ8年間続けられました。それは、住民の中で、「もやもやしたものがあるから念のために測りたい」というニーズが少数ではあっても続いていたからだといいます。住民の方々が不条理感に折り合いをつけるまで8年という長い歳月がかかったという話に、原発事故の後、人々が落ち着いた生活を取り戻すまでの難しさを感じました。

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