田中俊一さん(原子力規制委員会・初代委員長)

2021年3月

福島第一原発の事故から10年。未曾有の大事故にさまざまな形で向き合った人たちは、いま、あのときをどう振り返り、これからに向けて何を思っているのか。
原発事故の翌年に発足した原子力規制委員会で、初代委員長を務めた田中俊一さんに聞きました。
(取材:科学文化部 藤岡信介)

田中俊一さん
日本原子力研究所(現:日本原子力研究開発機構)を経て原子力委員会の委員長代理などを務めたあと、福島第一原発事故の翌年に発足した原子力規制委員会の初代委員長に就任。信頼の失墜した原子力規制の再生を担った。2017年に任期を終え、現在は、福島県飯舘村で除染のアドバイザーなどとして活動。1945年福島県生まれ。

あのとき

(記者)事故の時はどうされていた?

A:東日本大震災が起きた時、すでに原子力委員会を退職していたので、茨城県内の自宅にいました。
茨城も揺れがひどくて、床に本などが散乱しました。
電気や水道が止まり、テレビも見ることができませんでした。
しばらくはラジオからの情報で、地震や津波の被害、そして福島第一原発が大変なことになっていることを把握していました。
とにかくあの当時は、放射能が大量に放出され、多くの住民が避難せざるを得ない状況になってしまった事態をどう収拾するのか、それで頭はいっぱいでした。

(記者)その後、出身地でもある福島に向かい、除染などに注力されましたね。

A:はい。原発事故の翌月ごろだったでしょうか。被災した福島から離れていては詳細な状況がつかめなかったので現地に入ることを決めました。
福島第一原発に近い沿岸の地域は立ち入り禁止になっていましたので、まず、調査ができたのが飯舘村でした。
放射線を測定してみて驚いたのは相当な汚染が広大な土地に広がっていることでした。
一体、どうすればよいのか、無力感を感じました。
しかし、立ち止まってもしょうがない。
人が住める程度にまで少しでもレベルを下げる除染をやろうと決意しました。
そうしなければ、住民は戻ってくることができないと思ったのです。

(記者)そうされている中で、事故の翌年に新しく発足した規制機関、原子力規制委員会の初代委員長に就任されました。まさに地に落ちた日本の安全規制の立て直しを託された訳ですが。

A:はい。国の原子力安全・保安院が廃止され、原子力規制委員会が発足したのは事故の翌年でした。
重責を担う委員長。
誰かが引き受けなければならず、私が就任することになりました。
事故の前にあった原発の規制機関の原子力安全・保安院は、原子力を推進する官庁である経済産業省の中にありました。
私は事故の前からこれが問題だと思っていました。
いわゆる「原子力ムラ」の体質ですね。
これを新しい規制機関できちっと立て直さないといけないと考えていました。
規制委員会が行ったのは原発をやめさせる規制ではありません。
電力会社が原発を再稼働させるならば、2度と福島のような事故を起こさせない。
そのための安全規制を目指しました。
必要なことは在任中に何でもやろうと思いました。

いま

(記者)約5年にわたり、規制のトップで指揮をとられました。今振り返るとどう思われますか。

A:電力会社側からは「やりすぎだ」と言われましたし、逆に原発に反対する人からは「不十分だ」とも言われました。
どちらにしてもやりすぎるくらいやらないといけないと心に決めていました。
そうでなければ、国民の原子力に対する信頼は失われたままで、原発事故のあの当時からまったく変えられないと考えていました。
振り返ってみて、やれることはできたと思っています。
一方で、いま懸念しているのは福島の人たちが突然の避難を強いられた時の教訓がきちんと共有されたのだろうかということです。
原発事故が起きた際、まず被ばくを避けるべきですが、それと同時に“避難した場合のリスク”も考えることが重要です。
たとえば、事故当時、医療機関や介護施設から緊急に避難したことで十分な医療を受けられなかったり、心身に負担がかかったりして亡くなった住民もいます。
被ばくのリスクだけでなく、避難することで健康に与えるリスクも正しく理解してもらうことが大事だと改めて考えています。

(記者)規制委員会を退任された後は、福島県飯舘村で除染や復興に関する相談などを引き受けていらっしゃいますね。

A:本当の意味で復興したいのならば、どうしたらよいかをもっと真剣に考えないといけないと思っています。
たとえば、原発事故の後、食品は汚染されている前提で、国際的に見ても厳格すぎる規制がかけられたままで、まだ福島県の産物への風評が払拭できないことにつながっています。
風評があることは、当然、地元の県民がよくわかっています。
だから米や野菜などを作っても売れないからと、作り手が減っていく悪循環が起きています。
こうして福島の復興は、当初願ったものとは、違ったかたちになっているんです。
だからこそ、新しい過疎化の時代の街づくりをしないといけないのではないでしょうか。
どこかから産業を誘致するような古い発想ではいけません。
例えば、広大な農地や山林をどう活用するか、豊かな自然を前提とした発想が必要だと思います。

これから

(記者)これからの福島第一原発の廃炉の行方をどう見ていますか。

A:福島第一原発の廃炉について、国や東京電力は最大40年かかるとしていますが、このままでは100年たっても終わらない気がします。
大事なのは、現実的かつ客観的にリスクの優先順位を考えて廃炉作業の進む先を示すことです。
廃炉作業は、その場しのぎに終始していませんか。
いま気にしないといけないのは、プールに残る使用済み燃料です。
そして、汚染水を処理したあとに残る放射性廃棄物も膨大な量になっています。
なるべく早く対応しないといけません。
もはや福島第一原発では、敷地の外を汚染するような事態は起きないでしょうが、このままでは何年たっても原発の敷地の中は思うように片付きません。
リスクの軽重を見極めて対応してもらいたいと思います。

(記者)事故を踏まえて今後、私たちが考えるべきことは何でしょうか。

A:将来のエネルギーとして原子力を利用していくのかどうか考えることです。
政府は2050年に温室効果ガスをゼロにする方針を示しましたが、果たして原子力の利用なしに達成することが現実的にできるのでしょうか。
ところが、原発をどうするかという問題提起を国も電力会社も積極的にしていません。
いまは再稼働することで精一杯の状況だからです。
仮に、将来的に原発を使い続けるならば、原発を新規に作る必要があります。
しかし建設には1兆円という巨額の費用が見込まれるため、難しいという議論で止まっています。
一方で、太陽光や風力などの再生可能エネルギーの容量について、日本は世界でもトップクラスとも言われますが、まだ十分な利用ができるほどの段階までは至っていないのが実情です。
原発事故から10年となる今こそ、国や電力会社は、国民が納得のゆく議論ができるような、定量的かつ科学的な議論をする機会を作っていくべきです。

取材後記

田中さんは現在も拠点を構えた福島県と自宅のある茨城県とを往復する生活を送りながら、放射線のリスクについての講演や除染の支援などを行っています。

10年という月日がたつ中、飯舘村では放射線量が自然に減少してきたことに加え、除染活動の効果もあり、2017年には村の大部分で避難指示が解除されています。

ただ、田中さんは本当の意味で住民が生活を取り戻すには時間がかかるといいます。

原子力の専門家として、まだまだ地元でやれることがある、そう田中さんは話していました。

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