
障害があることは「ハンディキャップ」か。
最近は、東京オリンピック・パラリンピックの影響もあり、健常者との境目も徐々になくなっているようにも思う。ハンディキャップどころか、それが個性となって逆に気づかされる場面もある。
政治の世界ではどうか。全国におよそ3万人いるという地方議会の議員。このうち、障害者は少なくとも十数人。今回、この世界に飛び込んだ人たちの「声」をお伝えしたいと、訪ね歩いた。
(ネットワーク報道部 郡義之)
※記事中の年齢や肩書きは記事公開当時のものです。
ある男の決断
2月上旬。私(記者)が向かったのは北海道千歳市。
暖冬傾向と言われたにもかかわらず、その予想を裏切るかのように、この日は最強クラスの大寒波が容赦なく肌を刺す。駅から歩くこと10分少々。そこにあったのは、1軒の鍼灸院。
「やあ、いらっしゃい!寒かったでしょ」
出迎えたのは、落野章一(71)。
千歳市議会議員を務め、現在3期目。彼は、全く目が見えない。それでも「日常生活には全く支障ない」と言う。

千歳で生まれ育ち、盲学校から早稲田大学へ。その時の経験が今の議員活動の基礎を作った。
「健常者と障害者が同じ机を並べて授業を受ける風景。これこそが、理想の社会のあり方なんですよ」
学生運動にも参加し、「政治」がいつも身近にあったものの、当時は議員になることは考えてもいなかった。だが、ある1つの出来事が落野の人生を変えた。
ある冬の日。落野が雪道を1人で歩いていた時のことだ。点字ブロックは雪に埋もれて見当たらず、どこを歩いているのかさえ分からなかったことがあった。

健常者であれば、難なく通れる道。それが高いハードルのように思えた。
「夜になれば、信号機の音が消える。障害者が1人で安心して歩けないと思ったら、なんか、みじめに思えてきて…」

少しでもまちを変えられないかーー。そんな思いが背中を押し、落野は、千歳市で初めての障害者議員になった。
点字もスロープもなく
しかし、最初から議会活動が順調だったわけではない。当時の議会は、すべてが“健常者仕様"だった。議場にスロープはなく、ましてや、点字ブロックもなく、資料も点字にはなっていなかった。落野にとっては、ほかの議員よりも10メートルも20メートルも後ろのスタートラインだった。
文字通り、障害者の「障害」。それでも、部屋の名前を記した点字シールを貼ったり、市に資料を点訳してもらうなどの対応を受けながら、少しずつ環境を変えていった。
ふだんの活動をのぞかせてもらった。
「質問の原稿はこれで作るんですよ」

見せてくれたのは点字タイプライター。慣れた手つきでどんどん文字を打っていく。さらに、届いたメールは音声変換したものでパソコンに読み上げてもらう。
「健常者と変わらない」そう思ったのもつかの間、それだけでは十分ではない事実を知った。
実は、点訳者が1人しかおらず、市の各課から出された資料が締め切り間際に提出されると、時間がかかってしまうのだ。このため、通常の資料を、妻の順子に読み上げてもらうことも。

資料が十分読み込めず、以前、議会で質問に臨んだ際、的外れな質問をしてしまったこともあったという。

点訳にかけられる市の予算は年に約48万円。落野にも多少の遠慮があった。
「予算に限りもあるから、自分1人だけのためだけにお金はかけられない」
“アクティブに"
そんな落野を周囲はどう見ているのか。「障害者だと思って見ていない」と話すのは、議長の古川昌俊。あるエピソードを披露してくれた。
議場の席を決めた時のこと。障害を考慮して、落野の席を、上がる階段が少ない2列目に用意した。しかし落野は「自分はもうベテランだから、一番後ろでいいよね」と、3段先の最後列を希望したという。

「障害があることを感じさせない。目は見えないが、声だけで誰が話しているか分かる。いろんな人がいるから議会は成り立つ。健常者も障害者も意識せずに議論しているところに、議会のよさがある」と古川は言う。
落野が議員になってことしで10年目。すっかりベテランの域だ。彼の思いは千歳のまちづくりにどれだけ反映されたのか。どの政党・会派にも入らず、無所属議員として活動してきたこともあり、実現できた政策は限られる。
それでも去年、ひとつの条例を生み出すことができた。それが「手話言語条例」だった。障害者の権利向上を訴えてきた落野も成立に尽力した1人だ。落野は、少しずつ障害者に対する理解の広がりを感じている。
「かつての行政は、障害者のことはいつも後回しだった。まちには多様性が必要。私はアクティブな障害者として、これからも議会で訴え続けていく。議員になってよかったと思う」
脳性まひ だが私は目指す
日本では、年齢など要件を満たせば選挙に立候補することができる。実際に、日本も批准している「障害者の権利に関する条約」でも、障害者が選挙に立候補する権利が保障されている。しかし現実は、落野のように実際に議員となって活動する障害者はごく一部に限られる。
落野が議員になったちょうど同じ頃、千歳から800キロ余り離れた東京では、別の障害者が、議員になるべく、選挙運動を展開していた。
高木章成(43)。当時、都議会議員を目指し、選挙に立候補していた。

脳性まひのため、手足が不自由。言語に障害が残るものの、今は都議会議員の政策スタッフとして、汗を流す。高木に当時を振り返ってもらった。
「最初は選挙に出ようと思って、出たわけじゃないんです」
地元の東京都小金井市議会に足しげく通い、熱心に傍聴を続けた。子どもの権利を守り、いじめから守るための陳情活動にも取り組んだ。高校時代は生徒会活動に熱中し、他校にも呼びかけて、国連の「子どもの権利条約」の批准などを国会や都議会に求めたこともある。
そんな高木に、地元の関係者から白羽の矢がたった。しかし、すぐさま立候補に反対の声が。両親からだった。
「障害者を引っ張り出して、見せ物にするな」
挑戦、そして
高木は悩んだ。参政権は障害があろうとなかろうと、等しく行使できる権利だ。
「目の前にあるチャンス。そこから逃げたら、自分は一生後悔する」
一念発起、高木は立候補した。とはいえ、事はそう簡単ではなかった。公職選挙法では、障害者に関する定めは記されていない。つまり、健常者と同じ条件で選挙運動に臨まなければならない。障害者にとって、最もつらいのが情報発信だという。

言葉をうまく話せない高木にとって、有権者に政策を訴えることができなければ、選挙運動の意味がない。運動員に演説内容を復唱してもらったり、自身の政策を書いたプラカードをかたわらに置いてもらったりした。
さらに、身の回りの世話も課題になった。ふだん、週3回、ヘルパーのサポートを受けていた。しかし、選挙運動で同様のサービスを受けると「買収」のおそれがあり、公職選挙法に違反する可能性がある。このため、友人らが運動員となって支えた。
結果、高木が得られたのは8500票余り。最下位で落選した。移動と情報発信に制約を感じながらも懸命に駆け回った。さまざまな面で「不利だ」と思った。しかし、後悔はしていない。
#11
「政治参加したくても踏み切れない障害者もいるが、自分は立候補を通じて、地域の人からも認められるような存在になった。少しは何かが変わったと思う」
高木にまた選挙に出たいか聞いてみた。あの立候補から10年たっても、障害者を取り巻く選挙運動の環境は何ひとつ変わっていないと話す。
「政策の実現が議員になることだけとは限らない。自分は、都議のスタッフとして、障害者としての役割を担うだけ」
「障害者も1人の人間、法の下の平等で同じまちに生きる存在」として、選挙を経験した高木は訴える。
「選挙に出たくても出られない障害者はたくさんいる。でも社会に文句があるなら、権利を使えるなら、どんどん使おう」
だから分かること
障害があっても、政治参加できる社会にーー。20年余り前から、障害者議員を増やそうと取り組むグループがあると聞いて訪ねた。

「障害者の自立と政治参加をすすめるネットワーク」
今は、障害のある10人余りを含む20人の地方議員が参加している。中心メンバーの1人で、車いすに乗りながら、16年間議員活動をしているさいたま市の女性市議。この間、議会の環境も少しずつ変わっていったというが、もどかしい思いも吐露した。
「健常者と同じように仕事をするには、いろいろと周囲にお願いすることもある。しかし、それが『当たり前』のことなのか、『わがまま』なのか、悩む時もある」

そして、障害者への理解を深める機会を増やすべきだと訴える。「日本の社会はこれまで、障害者との接触があまりなかった人が多いように思う。交流を増やしていくことで、政治参加に対する理解も、徐々に広がるのではないか」
今回の統一地方選挙にあたって、立候補した障害者が何人かいるという。
「みんなちがって みんないい」
詩人・金子みすゞの詩の一節だ。多様性に富んだ社会が当たり前になろうとするなかで、障害のある人も立派な担い手だ。ある障害者の議員が「弱さは逆に強み。障害者だから分かることもある」と話してくれたのが印象的だった。
障害者も健常者も意識せず、意見がもっと言える、そんな社会のありようが求められている。
(※文中敬称略)