100年前に世界初の点字投票を実現させた人がいた
“点字投票の父”長﨑照義

若き日の長﨑照義の写真とイラスト

「目が見えないだけで政治に参画できないというばかげた理屈はにゃあない。盲人といえども国民に間違えにゃあない!」

早口でまくし立てられる尾張弁。その人の言葉には、独特の迫力と仲間を思う優しさが溢れていた。

約100年前の大正末期。投票したくてもできなかった視覚障害者たちのために"点字投票"を求めて奮闘した男、長﨑照義ながさきてるよし。後に"点字投票の父"と称される人物だ。その足跡をたどり、点字投票の知られざる歴史をひも解いた。

世界初の点字投票は日本で実現した

大正14年(1925)、ひとつの法律が公布された。いわゆる「普通選挙法」だ。

納税額による制限が撤廃され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が認められた。

女性の選挙権までは認められなかったが、選挙権の拡大を求める国民的な運動が実を結んだ。その中に画期的な一文が書かれていたことはあまり知られていない。

「投票に関する記載に付いては(略)点字はこれを文字とみなす」
※旧字体の漢字とカタカナ表記は筆者が修正。

投票用紙に記入する文字としては認められていなかった点字を、「文字として認める」という一文で、これにより視覚障害者は点字で投票ができるようになった。点字投票が法律で認められたのは世界で初めてだった。

それまで視覚障害者たちは実質、選挙権がない状況に置かれていた。日本の選挙制度は、投票用紙に自分で文字を書いて記入する「自書」が原則で、当時は代筆も認められておらず、文字を書くことが難しい視覚障害者たちは、投票したくてもできなかった。

その壁を越えて世界初の点字投票を実現に導いたのが、長﨑照義だった。

その原点は「悔しさ」

明治36年(1903)、長﨑照義は愛知県中島郡今伊勢村、現在の一宮市今伊勢町の貧しい農家に生まれた。

その年、村を猛烈な台風が襲い、田畑は雨と風で収穫がなくなった。長﨑家は母屋が倒壊して住む場所を失い、やむなく名古屋に移って両親は機織りの仕事を住み込みで始めた。

6歳のときに照義は不慮の事故にあう。暴れ馬から逃げようとしたときに土手を転げ落ち、目に傷を負った。しばらく病院にかかることができず、その傷から感染症にかかり、視力が徐々に低下する進行性の弱視になった。

照義は尋常小学校を5年生のときに中退。印刷所で働いた後、15歳で鍼灸あんまの師匠に師事し、住み込みで修業を始める。

修業の合間に照義は、貪欲に勉学に励んだ。わずかな給料を全て本に注ぎ込み、仲間が寝静まった後で明け方まで読みふけった。

そのころの視力は0.1あるかないか。本を読むときは顔にぴったりくっつくほどの距離に近づけて読んだ。

真夜中だから灯りは欠かせない。仲間たちを起こさないよう、カンテラ(オイル式の照明器具)とともに風呂敷にくるまって、一文字一文字、貪るように読んだ。

揺らめく灯りの中で、照義の世界はどんどん広がった。18歳から大学の通信講座で文学と政治経済を学び、その費用は、勉強熱心な照義に感心した師匠が出してくれた。

読書が好きだったこともあるがそれ以上に、不慮の事故をきっかけに十分な教育を受けられなかった悔しさが、照義を突き動かした。

照義は当時の視覚障害者の中で異質だった。

テレビはおろかラジオもない時代、点字の新聞は創刊したばかり。視覚障害者は圧倒的に情報弱者だった。世の中で選挙権の拡大を求める普通選挙運動が高まっていることなど、視覚障害者の多くは知るよしも無かった

しかし照義は気づいていた。視覚障害者も普通選挙運動に乗り遅れず、点字投票の実現を求める声を上げなければならないことを。

勇ましい表情の照義のイラスト 大正12年(1923)はたちの秋 点字投票運動を始めることを決意

仲間たちが思わぬ壁になった

大正12年(1923)、はたちの秋に照義は、視覚障害のある仲間たちとともに、点字投票を求める運動を始めることを決意する。しかし思わぬ壁が立ちはだかる。あろうことか、視覚障害のある仲間たちが懐疑的だったのだ。

ある日の会合でのこと。仲間たちのまとめ役の年長者がこう発言した。

「(点字投票を求める)運動は極めて可能性の少ない実現困難な問題だと思う。500年は早いんじゃないでしょうか?」

仲間たちからどっと笑いが起きた。しかし、照義は動じなかった。

「諸君。法律の改正とか新設とかは、全て必要と要求に応じて人が作る。『要求なき法の改正はありえない』今こそ500年を、我々の熱意と努力で短縮させよう」

空気はがらりと変わった。照義の考えを問う採決が取られた。

「賛成の方の起立を求めます」

「おおっ!」

皆が立った。拍手が会場をゆさぶった。

「憲政の神様」に突撃!

仲間の説得に成功した照義は、勢いそのままに次の行動に出る。普通選挙運動をけん引していた政治家の尾崎行雄おざきゆきおに、点字投票の必要性を直談判しようと考えたのだ。

尾崎と言えば東京市長や文部大臣を歴任し、後に「憲政の神様」と称され、日本の民主政治の礎を築いた大物政治家だ。弱冠はたちの名もない若者が簡単に会えるはずがない。

しかし照義は「アポなし」で会いに行った。尾崎が普通選挙運動の大規模な大会のために名古屋に来ていた日に、宿を聞きつけて“突撃”した。しかしあえなく撃沈。最初は取次に断られた。それでもあきらめずに粘り、取次が折れた。5分だけ話を聞いてもらえることになり、照義はまくし立てた。

「盲人には点字というものがある。だから点字投票を有効にしてくれれば、いちばんいいんだ。目が見えないだけで政治に参画できないという馬鹿げた理屈はにゃあ。盲人といえども国民に間違えにゃあ!」

5分のはずが1時間経っていた。

照義の熱意を尾崎がどう受け止めたのか、正確ないきさつを知る術は今はない。しかし翌日の新聞が、大会で次の一文が可決されたことを報じていた。

「付帯決議 一、盲人の点字投票を認むる事」

照義のイラストと当時の新聞記事切り抜き 東海普選民衆大会で「盲人の点字投票を認むる事」が付帯決議として決議されたことを伝えている

その後はまさに破竹の勢いだった。点字投票を求める運動は全国規模に拡大し、照義は全国を行脚し先頭に立って運動をけん引した。

大正13年(1924)には上京して当時の貴族院議長、徳川家達とくがわいえさとと面会。普通選挙法で点字投票が認められる見通しであることを確認した。

そして大正14年(1925)、ついに点字投票を認める普通選挙法が公布された。

なぜ点字投票にこだわったのか

年長者でも大物政治家でも、どんな相手を前にしても照義は自らの主張を貫き、真っすぐに突き進んだ。

ここでひとつの疑問が生じる。照義は弱視。目を近づければ文字を読むことができ、書くこともできた。つまり点字投票は照義にとって必ずしも必要なものではなかったはずだ。

なぜ照義は点字投票の実現に力を注いだのか?

自身も全盲で、視覚障害者の福祉と歴史について研究する愼英弘しんよんほんさんはこう語る。

視覚障害者の福祉と歴史について研究する愼(しん)英(よん)弘(ほん)さん(四天王寺大学名誉教授)

「当時の視覚障害者たちには、鍼灸あんまを中心とした職業的なつながりが強くあり、弱視か、全盲かを問わず団結していた。そんな仲間たちが、本来認められるべき選挙権を行使できず、いわば“2級市民”の扱いを受けている。照義にはそのことに対する憤りがあった。仲間たちを“1級市民”に引き上げるために自分ができることは何でもする。照義はそんな思いに突き動かされていたのだと思います」

後年、照義は全盲の仲間を率いて様々な挑戦をした。その最たる例が富士登山で、全盲の仲間を照義が先導し登頂した。照義はこの話を幾度となく周囲に自慢した。仲間とともに目標を成し遂げることは、照義にとってこの上ない喜びだった。

一目ぼれ、いいえ“ひと聞きぼれ”

点字投票実現に邁進する中で照義はもうひとつの大仕事を成し遂げていた。照義の娘、三希子さんと孫の龍樹さんが、その話を聞かせてくれた。

照義の娘、三希子さんと孫の龍樹さん

(三希子さん)
「点字投票の演説会があった時に、母がちょうどたまたま聞きに行っておりまして“ひと聞きぼれ”をして。それで母が自分のところへ嫁に来たという話は自慢げによく話していました」

照義は点字投票運動が最高潮に達していた大正13年(1924)、同い年のかぎと結婚。自身も視覚に障害があったかぎは、自分たちの権利を真っすぐに主張する照義の姿に惹かれたと言う。

(三希子さん)
「母親は自分からいろいろ主張する人ではなかった。自分が言えないけど言いたい意見を(照義が)口に出して言ってくれるのが頼もしく思えたのだと思います」

照義の妻、かぎさんの写真

(龍樹さん)
「とにかく訴えていかなければ誰も分かってくれないということは、孫にもいつも言っていた。主張するためにはとにかく勉強しないと世の中で通用しないということも、常々言われていた。堂々と視覚障害という人たちのことを世に知らしめて尽力した偉大な祖父だなと思います」

三希子さんは照義の若き日の写真をポーチに入れ、いつも肌身離さず持ち歩いている。

(三希子さん)
「いつもそばにいてもらいたいので。頑固な。でも優しい。私が世界中で、いちばん尊敬する男性でした」

昭和56年(1981)、照義は78歳で永眠した。

照義さん、まじかっこいい…

取材を進めるうち、私(筆者)は照義という人物に得も言われぬ親近感を覚えた。

「かっこつけたがりで、帽子とか伊達(だて)眼鏡とかよくつけてました」などの愛らしい一面を娘の三希子さんから聞いたせいもある。

でも何よりその生き方に「照義さん、まじかっこいいっす」と、無礼千万ながら、友人と雑談するような身近なノリで呼びかけたい気持ちが募っていった。

それは今の自分が置かれている環境と関係があるからかもしれないと考え始めた。

私はふだんは「ハートネットTV」という福祉番組を制作している。最近は“福祉の知識がイチから学べる”というコンセプトの「フクチッチ」という企画を制作。視覚障害や車いすなど、身近にありながら一般には深く知られていないテーマを取材してきた。

そのたびに様々な障害がある人たちから「社会や制度がこう変わってくれればいいのに…」「すぐに変わらなくても、せめて私たちの存在を知ってもらえたら…」という声を聞いた。その声はどれも説得力があり切実だった。

当事者は声を上げている。でもそれが知られていない、伝えられていない。自分の力不足を痛感するとともに、仲間のために点字投票を実現へと導いた照義をかっこよく感じた。

難しい取材であっても、声なき声をしっかりと、堂々と伝えている先輩ディレクターのようなかっこよさだった。

照義をかっこよく感じたエピソードはまだある。それは信じられないほど早いタイミングで点字投票を実現させていたことだ。

実は点字投票が実現したのは、日本で点字が使われ始めたわずか35年後のこと。フランスで発明された点字が日本語用に翻案されたのが1890年で、以来、盲学校を中心に使われていたものの、一般の認知度は駅などの案内に点字がある今とは比べものにならないほど低かった。

多くの人が「点字ってなんですか?」というくらいだった時代に、構うことなく「盲人には点字というものがあるんだ」と言い切って信念を貫き通した姿に驚嘆した。

当事者の声や思いに触れた者は、それがどれだけ小さくとも、たとえ自身が当事者でなくても、一緒になって社会に訴えかけていいんだ。そんな勇気を照義が与えてくれた。

照義は60歳を過ぎたころに視力がさらに低下し光を感じる程度になった。そして自らも点字で一票を投じるようになった。

70歳のころ、点字で自伝を記した。そのタイトルは「ピエロ カンテラに踊る」。ピエロのように主役ではなかった自分の人生は、かつて貪るように勉学に励んだ、あの揺らめくカンテラの灯りの中で踊り続けるようなものに過ぎなかった。そんな謙遜がタイトルに込められている。

間違いなく主役級の活躍をした照義の、ちょっとおどけた謙遜には、あくまでも仲間を立てようとする照義の思いの深さを感じずにはいられない。

照義の自伝、ピエロカンテラに踊るの表紙

今、点字を使う人は約3万人と言われている。代理投票などの制度がある今、すべての人が点字投票をするわけではないが、ほとんどの投票所で点字盤が準備されるようになった。

誰もが平等に行使できる選挙権。その方法の一つに、照義の思いが今も確かに息づいている。

ハートネットTV ディレクター加藤寛貴

(ハートネットTVディレクター 加藤寛貴)

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