17日後、夢に出てきてくれた母「遅すぎるよ、でもありがとう」

17日後、夢に出てきてくれた母「遅すぎるよ、でもありがとう」
元日、父と僕におせちを作ってくれた母の笑顔です。

そんな母が夢に出てきたのは、地震から17日後の1月18日のことでした。

たあいのない話のあとで、母はこう言いました。

「私のことはいいから、あなたもしっかりやりなさいよ」

目が覚めたあと、もう会うことはできないと思うと、涙が止まりませんでした。

「何も特別なことない1日」が

本当にふだんどおりのお正月だったんです。

朝から父と母が起きてお雑煮とか先に食べて、僕はもう完璧に寝正月だったので、夕方くらいまで寝ていました。
起きてからも、母が2階から降りてごはんの準備をしてくれて、それを食べてっていう本当に何も特別なこともない1日でした。

食べたのは、母が作ってくれたお雑煮です。おいしかったですよね。

うちのお雑煮ってほかじゃあまり聞かないと思うんですけど、煮た餅の上にあんこをのっけるんですよ。それが子どものころからの定番で。

これが当たり前だと思ってるから、友だちの家とかで1回ごちそうになったことがあって「こういう感じなんだ」って信じられなかったです。

会話は、結婚して東京にいる妹のところの、ことし小学校にあがるめいっ子の話をしていました。

「どんどん大きくなるね」

それが僕と母の最後の会話でした。
輪島市の宮本竜馬さん(38)は、1月1日の能登半島地震で自宅が倒壊し、同居する母親のちえ子さん(66)を亡くしました。

父親の和幸さん(65)を含めた家族3人が自宅で過ごしていて、竜馬さんがちえ子さんの作った雑煮を食べながら、2人でたあいもない話をした直後に揺れに襲われたということです。

この記事は、宮本さんが記者に話してくれたことを「僕」=宮本さんが話すことばとしてつづらせていただきます。

「オカンが、おらん」

あの時、午後4時10分、僕のごはんの準備をして、めいっ子の話をしたあとで、台所から出て行く母の背中を見送った瞬間でした。

電気とかテレビも急に真っ暗になって、激しい横揺れが来て。

立っていられないから、僕はその場で頭を抱えて、何も考えられない状態でかがんでいました。内心「死んだかも」と、諦めのようなことも思いました。

ようやく揺れが収まりました。

まわりを見回すと、自分の上に屋根が落ちてきていましたが、台所のテーブルとかテレビ台の付近に引っかかってくれていて、まわりに僕1人が立っていられるくらいのスペースがありました。

上の方を見ると天井に穴が開いていて、そこから外の光が漏れているのが見えました。
すると外から、父の声が聞こえました。

「大丈夫か」

「俺は大丈夫」

「おっかあはそこにおるか」

「いや、オカンおらん。そっちにおるんじゃないの?」

「ここにもおらん」

僕はテレビ台の角のへりに足を乗せて、そのまま腕力だけで屋根の上にのぼって穴からはいずり出て父と合流しました。

「気を失っているだけかも」

母がいないとわかって、父と2人で家に向かってひたすら「オカン、オカン」と母親によびかける状況が続きました。

どこにいるかをまず考えようと思いました。

最後は台所から出て行く背中を見ているから、揺れのショックで飛ばされて玄関先のほうにいるんじゃないか。

ここに向かって声をかけていれば、今は気を失っているだけかもしれないから、意識を戻したら何か反応してくれるんじゃないか。
地震が起きてからずっと、家の前で声をかけ続けたんです。

もしかしたら何か物音がして場所がわかるかもしれないので、真っ暗になってからもずっと家の中をなんとか見渡して、ということをやっていました。

消防には父が一番に電話してくれました。

でも母は揺れた時に悲鳴とか聞こえなかったので、同じように倒壊して生き埋めになっている人がほかにもいて「声が聞こえている人を優先に」ということを言われたのか、いくら待っても救急の人が来てくれない状況がずっと続きました。

その後、警察の人が来てくれて家の状況を見た時に「これはとてもじゃないけど重機とか使わないと探せない」と言われました。

それで「きょうはもういったん諦めるしかないね」となりました。それが夜8時くらいでした。

なんでうちを優先してくれないんだ、とかは全然思わなかったです。ほかで助かる人がいるんだったら当然優先してもらいたいですし。

よくテレビとかで見るような、気絶しているだけで奇跡的に助け出されたあとに息を吹き返す、みたいな、いい方向ばかりを想像しようと思って。

「きっと大丈夫。助け出されるのはあとになっても、しぶとい母親だから絶対に無事だ」

そう強く思いながら壊れた自宅を離れて避難所に行き、残りの時間を過ごしました。

「お母さんが見つかりました」

翌日、父親と朝から自宅に戻り、また声をかけ続けました。

声をかけ続けてどうしようもない状況になっている時に自衛隊の方が5、6人で家のほうに来てくれて、捜索を始めてくれました。

僕が想像して思い当たるところを全部伝えて、そこも床とかはがして捜してくれたんですけど、どこにもいなくて。

見つかったのはちょうど丸1日たったくらいの夕方3時から4時ごろでした。

自衛隊の方に「お母さんが見つかりました」と呼ばれて。

見つかったのは階段があった場所でした。

僕のごはんの準備も終わったし、たぶん2階に上がって父と同じ部屋でテレビでも見ようと思ってたんじゃないですかね。

見つかった時の母は、本当にきれいな姿で出てきたんです。いつも寝ている時のような顔で、呼びかけたらすぐにでも目を開けて起きるんじゃないかと思うくらいでした。

「うそだ!」「こんなもん絶対夢だ!」

いろいろな感情が爆発して、ただただ泣き叫ぶような状況でした。僕も泣き叫ぶし、父親があんなに泣く姿も初めて見ました。

「またあなたを育てたい」

僕にとっては厳しくもあり、それでいて優しいというか、本当に真面目な母親でした。

小さいころはいたずらをして怒られることもたくさんありましたが、テストでいい点をとったり人助けをしたりすると、こちらが照れくさくなるくらいほめてくれました。
一番最後に褒められたのは、去年の終わりごろ。

道が凍結して滑りやすくなってる時に、転んでけがしてしまった人がいたんです。

たまたまその人を見つけて救急車を呼んだ話を母親にしたら、母は「なかなかできることじゃない」みたいな感じで「私の誇りだ」と。

まさかこんな38の息子にここまで言うかってぐらいのことばをかけられたのを覚えています。

否定せずに、その人のいいところをもっと伸ばしてくれるような感じではあったのかな、と思います。

本当に子どもが大好きで、保育士として20代のころは東京で働いていました。

結婚を機に輪島市に移ってしばらくは仕事から離れていましたが、数年前からは非常勤で市内の保育所に勤めていました。

「やっぱり赤ちゃんはかわいい。1からまたあなたを育てたい」

そう言うぐらい好きだったですね。

父と2人、なるべく一緒に

その後もしばらくは遺体の引き取りの人も来てくれなかったので、母はいったん家の中の崩れない場所に安置させていただきました。
父と僕は家から布団とか使えそうなものを引っ張り出して避難所に戻って、しばらく無気力な状態で過ごした感じです。

父とはお互いあまりしゃべらないですけど、珍しく一緒に話して、とにかくなるべく一緒に行動して過ごしたような気がします。

時々2人で家に行って、母の顔を確認しました。顔を見ては泣いて、手を合わせて、というのを繰り返して。

僕はもしかしたら、なんだかんだ息を吹き返すんじゃないかなと、まだその時はずっと思っていて、いい方向にばかり考えたい気持ちがあって、そのつど悲しかったです。

「遅すぎるよ、でもありがとう」

1週間くらいたったあとからは、それでもなんとか生きていかないといけないから、無理矢理にでも、いつもどおりふるまおうとしていました。悲しいんですけど、自分の気持ちをごまかしごまかし、無理して生活していたような感じでした。

そして、今でも日付を覚えてるんですけど1月の18日、自分の願望がそうさせたといえば、それまでかもしれないですけど、夢に亡くなった母が出てきてくれて。

まわりの親戚の夢枕には出たっていう話は聞いていたんですよ。でも僕らのところには一切出てこなくて「全然出てこないね」って話を父ともしていたんです。

本当にたあいもない話を、いつもどおりしました。

生前、母が大切にしていて「自分が死んだ時にはひつぎの中にこれも一緒に入れて」と言っていたぬいぐるみがあるんですけど、状況が状況だったので、見つからなかったんです。だから母の遺言どおりにはならなかったんですね。

夢の中で「あのぬいぐるみ見つかったん?」と聞いたら、母も「私も見つからなかった」って言うんですよ。

母はいつもの調子で「もし出てきたら、そっちしばらく預けとくから、一緒に大切に置いといてあげて」と言ってました。
最後の最後、夢から覚める瞬間でした。

母がいつもの笑顔で言ったんです。

「私のことはいいから、あなたもしっかりやりなさいよ」

朝4時ごろ、目が覚めると涙が止まりませんでした。

泣きながら思わず「遅すぎるよ」と悪態をついたあと「それでも来てくれてありがとう」ということばが口から出ました。

自分の願望だったかもしれないですけど、僕は最後に母が会いに来てくれたと思いたいです。メソメソしていると怒る人だったので、私に喝を入れに来てくれたのだと思います。悲しい気持ちはありますが、心がすっと軽くなりました。

たぶんもうしばらく会うことはないなと思っていて、実際その日以来、一切、母は夢には出てきていません。

母は今回の地震で命を落としましたが、僕自身は幸運にも生き残りました。生き残ったからには、いつまでも後ろ向きでくよくよせず、前を向いてやれることを一歩一歩、確実にやっていこうと思います。

それにしても心残りなのが、最後に食べたお雑煮です。

実は僕、全部食べきれなかったんです。最後に2、3口で食べ終わる瞬間に地震が来てしまって、おわんごとスコーッと行ってしまっているので。

もう2度と食べられない母の手料理だとわかっていたら、それこそ落ちたものでもいいから、手づかみでも何でも口に放り込んでおけばよかったなと思う。

そして食べるだけ食べて、母に「ごちそうさまでした」って言いたかったです。

(能登半島地震取材班 岡本なつみ)

(2月14日「ニュース7」で放送)