「やめたらダメや」日記に記したふるさとへの思い

「やめたらダメや」日記に記したふるさとへの思い
地域の人々をつなぐ書店を営む女性が見せてくれた1冊のノート。

住み慣れた街の景色や常連客の笑顔、平穏な日々はあの日、一変しました。

「地震なんて無かった」

そんな夢を見て現実に戻った朝もありました。

心配してくれる人のことばに、前向きな気持ちをもらうことも。

女性が記した日記には、日々変わる感情や再建への決意がつづられていました。
(社会部 記者 若林勇希)

老舗書店の娘に生まれて

日記を見せてくれたのは、石川県穴水町に住む水越麻規子さん(52)です。

大正時代から続く「水越書店」の娘として、この町に生まれました。

両親や祖父母たちが代々、大切に守ってきた書店は自慢の場所でした。
水越さんが小学生のころは、雑誌や漫画が飛ぶように売れた時代です。

発売日には大勢の客が店を訪れ、学校帰りには人混みをかき分けながら中へ入っていったといいます。
水越麻規子さん
「この頃は本が書店でよく売れました。父は子ども思いで優しく、小学生向けのコーナーには、たくさんの学習雑誌を用意していました」
高校を卒業後は上京して短大に進み東京で働いていましたが、その後、穴水町に戻り8年前に家業を継ぎました。

書籍の売り上げが落ち込む中で、かつてのような忙しさはなくなったものの、なじみの客に本を届けに行ったり地元の子どもたちの教科書を販売したりしながら平穏な毎日を過ごしていました。

書店は世代を超えて街の人に愛され、穴水町の小中学校や高校、すべての教科書の販売を水越さんが担っていたそうです。

激しい揺れが奪ったくらし

そんな日々は地震で一変しました。

あの日、水越さんは80歳の母親と姉、おいの4人で自宅の居間で休んでいました。

おいの好物のすき焼きや郷土料理の“かぶらずし”など、夕飯のごちそうを用意しようとし始めたところ、経験したことのない激しい揺れが家を襲いました。

とっさに机の下に隠れましたが揺れはなかなかおさまらず、むしろだんだんと強くなっていきました。見上げると、天井が音を立てながら、何とか持ちこたえようと耐えていました。
「これが落ちてきたら死ぬな」

そんなことを考えているうちに長い揺れがようやくおさまり、窓から外を見ると、自宅に隣接し100年以上にわたって親しまれてきた水越書店は大きく倒れて商店街の道路を塞いでいました。
家族は全員無事でしたが自宅は全壊し、水越さんたちは地元の交流館へ避難しました。
避難所には水越さんと同じ、住まいを無くしたたくさんの人たちがいました。

断水も長期化し、先の見えない生活が続くなかで、水越さんの気持ちは少しずつ落ち込んでいったといいます。

一方、役場の職員やボランティアが懸命に活動している様子に感謝し、励まされる思いもしました。

地震から10日後、水越さんは日々の出来事や感じたことを記録しようと日記を書くことにしました。

「何日の何曜日なのかも把握できていない」

避難所にはノートもなく、最初の日記はタブレット端末にメモしました。
日記の冒頭には「今日が何日の何曜日なのかも把握出来ていない」とのことば。

避難所で行われていた体操に取り組んだものの「随分と身体が重いと感じていた」などと避難生活の疲れが見え始めていました。
水越麻規子さん
「書店をしていたときは、月曜はジャンプ、金曜は文春と新潮、土曜はフライデーなどと、本や雑誌が配達されてくる日付で曜日を意識していたんですね。仕事を失ったことで、こうした感覚もなくなってしまったんだなと感じました」
自宅の片付けに戻った際に偶然会った隣家の女性とのやり取りも、日記に記録しました。

「何処におっても幸せにおらな駄目やよ」と、ことばをかけて女性とは別れましたが「張りつめた、ふと思い詰めたような涙」が忘れられないと書き込みました。

ノートに記したふるさとへの思い

1月13日、水越さんは高齢の母親の体調などを考慮して穴水町を離れました。

金沢市の1.5次避難所を経由して2次避難所のホテルに移り、19日、ようやく1冊のノートを買いました。
「明日はコインランドリーへ行き、せんたくをする」

「穴水の人達元気かナ?ラジオ体操してるかナ?元気を沢山くれた人達、どうか心穏やかに少しでも過ごせているといいナ」
ホテルでの生活に安心感を覚える一方、理不尽な地震への思いが抑えきれずあふれ出ることもありました。
「返してほしい。店も家も、平穏な毎日も。本当ににくい、地震が。何でこんな目にあわせたのか?地震」(1月21日の日記)

「夢見とるみたいな話」

ある日、水越さんは不思議な夢を見ました。
「夢の中で私が母に『夢見とるみたいな話ねんけど、店が、大丈夫やったみたいで直っとるヨ』と」(1月25日の日記)
夢で見たのは学校の図書室の司書が本を注文しに来るという穏やかな日々の景色。

しかし、目覚めとともに引き戻されたのは住まいも書店も失った現実でした。
「夢の中で夢のような話と、とても喜んでいる自分の姿。そうなら実際にそうならどれだけいいか。現実はもう、うばわれて何もなくて、感情をころして生きていかないといけない」(1月25日の日記)
水越さんは当時の心境について次のように振り返っていました。
水越麻規子さん
「被災者の心がこうやって疲弊していくんだなということがよくわかりました。とてもつらい夢でした」

「1人では生きていけない」

先の見えない不安な避難生活が続く中で、日記には周囲にいるたくさんの人の支えを感じたときの率直な気持ちも書き残されていました。
「(行政の担当者が)親身になって次の(避難所となる)宿泊先を考えてくれる。ホントにありがたい。いつも親身。金沢の人達も、のとの人を支えてくれているのを身にしみて感じる」(1月26日の日記)
「人は一人では生きていけないし、一人で生きてきたのではないのだと。支え合って生きてきたのだと実感する」(1月28日の日記)
1月29日、水越さんはおよそ2週間ぶりに穴水町へ戻りました。

そこで町の教育委員会の担当者に、ことしは教科書を販売できないと謝ると、担当者は「マキちゃんがここに来てくれただけでいいから、体を大事にしとってよ」と声をかけてくれたそうです。

さらに、これまでつきあいのあった教科書の販売会社やほかの町の書店が、穴水町の教科書の検品作業や、生徒ごとの仕分けなどをすべて代わりに担ってくれることになりました。

教科書の販売会社の男性は、水越さんにこう言ってくれました。
教科書販売会社の男性
「また来年やればいいげんよ。3月ぐらいになって落ち着いたらバイトきてね」
自分のいない間に穴水町は少しずつ復興に向かって歩み出していると感じたそうです。
水越麻規子さん
「声をかけられたとき、なんて暖かい言葉なんだろうと感じました。地震が起きたときは店を閉めようと思っていましたが、支えてくれる人や子どもたちのことを思うと気持ちが変わりました」

「亡くなった人や家族を思うとことばも無い」

一方、日記には地震で亡くなった人や家族への思いも寄せていました。
「今日で地震から1ヶ月。それぞれの1ヶ月をTV等で見る。亡くなった人の事を思うと、その家族の方の姿を見ると、言葉もない」(2月1日の日記)
犠牲者の中には水越さんがたまにあいさつを交わしたり、過去に毎月、本を届けたりしていた人もいました。
水越麻規子さん
「厳しい現実を目の当たりにして胸が苦しくなるときがあります。今でもお互いの無事を確認し、ほっと胸をなで下ろすこともあります。犠牲になった方々のことを思い続けながら今後も過ごしていきたいです」

少しずつ前を向く覚悟「いつかこの恩を返したい」

取材の最後、水越さんに今後も日記を書いていくつもりか尋ねました。
水越麻規子さん
「書いてみたいと思います。地震が起きたことで、これからの生活をより大切に生きていきたいと考えるようになりました。そう気付かせてくれたのは『日記』だと思います。店や自宅の再建など、まだ不安なことばかりですが、日記を書きながら頭の中を整理して乗り越えていきたいと思います」
水越さんの日記には決意の言葉が記されています。
「こんなに支えてくれる人がいて私は幸せだと思う。そしていつか必ずこの恩を返したい。その日迄の道のりは長いし、返せないかもしれないけど、今は前を向いて現実を受け入れて頑張ろうと思った」(1月31日の日記)

専門家「日記の記録 極めて貴重」

水越さんが日々の出来事や自分の思いを率直につづった日記。

許可をいただいた上で、被災者の心情などを研究している東北大学大学院の阿部恒之教授(心理学)に分析してもらいました。
阿部教授は「否定的感情」「肯定的感情」「ささやかな日常」など、記されたことばを5つのカテゴリーに分けて数をカウントし、感情の移り変わりを考察しました。
まず注目したのは「悲しい」などの「否定的感情・不満」のことばが一貫して書かれている点です。

負の行動にも見えますが、気持ちを安定させるためにはとても大事なことだと指摘します。

感情をありのままことばにすることで頭の中を整理し、ストレスを減らすことができるということです。
また1月後半からは「肯定的感情・意思」のことばが急増し「助け合い・思いやり」や「感謝」を含めると、その数は「否定的感情・不満」のおよそ3倍にのぼっていました。

きっかけとなったのが、1月29日の日記に書かれた穴水町での出来事だと阿部教授はいいます。
東北大学大学院 阿部恒之 教授
「久しぶりに地元の人たちと触れ合い、物事を前向きに捉えられるようになったことで、ポジティブな言動が急増していた。日記は記憶が鮮明なうちに書き残すことから正確性が高く、今回の日記は被災した人たちの感情を推し量る意味でも、とても貴重だ」
※文中の日記は( )で補ったもの以外はすべて水越さんの原文のとおりです。

(1月31日「ニュースウオッチ9」で放送)
社会部 記者
若林 勇希
2012年入局 初任地は鹿児島局
警視庁担当を経て2020年から災害担当