孤立で救助来ず 自宅に「父ちゃん」呼び続け【被災地の声】

地震で亡くなった、輪島市の八幡幸三さん(76)です。

自宅が倒壊しましたが、地区は一時孤立。

数日間にわたって救助が来ない中、次男の好彦さんは毎朝、倒壊した家屋に「父ちゃん」と呼びかけました。

「悔しいけれど、自分がしっかり生きていかなければと思います」と話しています。

輪島市町野町 家族4人の正月が

八幡好彦さん(48)は、1月1日、輪島市町野町の木造2階建ての自宅で父親の幸三さん(76)と母親、それに兄の家族4人でいたところ大きな揺れに襲われました。

「危ないから逃げたほうがいい」

八幡さんが1階の居間にいた幸三さんにそう伝えた直後、2回目の揺れが来ました。

自宅は倒壊。

八幡さんと兄は自力で逃げ、母親は近所の人の力を借りて倒壊した家屋から無事救出することができました。

しかし、幸三さんは家屋の下敷きになっていました。

呼びかけましたが反応はありません。

地区の消防署員に助けを求めましたが、他にも下敷きになった人が多くいたため、来てもらえなかったということです。

さらに、地区は周辺の道路が壊れて一時孤立していました。

そのため、地区の外から消防隊に来てもらうこともできませんでした。

八幡好彦さん

「呼んだけれど何の返事もなかったし、近所の人とみんなでずっと叫んだけど、全然応答がなかった。ずっと叫んどってんけど、余震もあったし暗くなってきたんで、どっか避難するしかないかと」

毎朝「父ちゃん」と呼びかけ

近くの避難所に身を寄せましたが、来る日も来る日も助けは来ません。

その間、八幡さんは毎朝、倒壊した家屋へ戻り「父ちゃん」と呼びかけて、助けを待ち続けました。

4日後の1月5日。

ようやく県外の消防隊が到着。

倒壊した家屋の中から幸三さんを発見しましたが、すでに亡くなっていました。

「毎日自宅の前に行って叫びました。見つかったときは大泣きしました。姿を見て悲しかったです」

「元日でなければ、別の日だったら」

幸三さんは中学校卒業後から左官として働き、妻とともに息子2人を育てました。

「頑固で、家にいても口数少ない父でしゃべることはあまりなかったんですけど、腕のいい職人だったみたいで、仕事に関しては尊敬していました」

引退後は畑仕事が趣味だったということです。

育てた野菜を近所に配って喜んでもらえるのを楽しみに、毎日、日中は畑に出ていたということです。

「元日でなければ、地震が起きた時間はだいたい畑にいました。別の日だったらという気持ちがあります。悔しいですが、起きたことは戻せません。その分自分がしっかり生きていかなければと思います。そうでないと父ちゃんも悲しむと思うので」

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