「いつ帰れるのか…」孤立集落からヘリで全員避難 その時
「これからどうなるのか、不安の中で地区を離れました」
孤立状態が続いた石川県輪島市深見町では、ヘリコプターによる救助で全員が集落を離れた地区があります。
孤立の中での避難生活の様子や、地区全員での避難を決めた際の詳しい状況などを、避難した61歳の男性が話してくれました。
ニュースポスト
自宅で被災 おびえる妻に覆いかぶさって
地震が発生した今月1日、輪島市深見町の地区に住む61歳の男性は家族で新年のお祝いをしていたということです。
自宅にいたのは、同居する60歳の妻と90歳の父親のほか、富山から帰省していた弟の家族のあわせて10人。
その時、男性は2階にいましたが、1階から「お父さん」と呼ぶ声がしたため、大きな揺れが続く中で階段を降り、玄関で座り込む妻の元に駆け寄り必死に覆いかぶさりました。
揺れが何秒続いたか、縦揺れだったのか、横揺れだったのか、覚えていません。ただただ長く強い揺れで、恐怖を覚えました。
明治4年に造られたという自宅の母屋は倒壊は免れたものの、ドアは1メートルほど吹き飛んで壁や瓦は落ち、床もところどころ隙間ができてしまっていて、住むことができなくなっていました。
地区の道路を見に行くと、土砂で完全に埋まって通行できなくなっていました。
その様子を見て、地区が孤立したことがわかりました。
布団にくるまり寒さしのぐ 自宅で避難生活
集落の中に全員が避難できる場所はなく、10人は被害が少なかった自宅敷地内の別の建物で避難を始めましたが、電気も水道も使えません。
避難した部屋の広さは15畳ほど。灯油は備蓄があり、ストーブをたきました。
ストーブは3台ありましたが、大きな余震が続く中、すぐに逃げられるようにと窓を開けっぱなしにせざるをえませんでした。
そのためストーブがあっても寒く、10人全員が布団にくるまって寒さをしのいだということです。
食事はストーブの上でご飯を炊いたり、冷凍庫にあった鶏肉を焼いたりして分け合って食べ、水は自宅近くの湧き水をくんで20リットルのタンクに詰めて使いました。
テレビも見られず、電池式のラジオをみんなで聞いていたということです。
情報もなく、物資も届かない中、自分の地区は見放されたのではないかと疑心暗鬼になっていました。そんなときにラジオから、自分の地区の名前が聞こえたときに、見放されていないと励まされたことを覚えています。
その後、1月4日になって、10キロほど離れた避難所から初めて救援物資が届きました。
道路寸断のため車で運ぶことができず、徒歩などで沿岸を走る国道まで受け取りに行ったということです。
届いたのは1人あたりカップ麺1個と500ミリリットルの水1本、紙おむつと生理用品でした。
4日目 徒歩で輪島の市街地へ
「弟家族をなんとかして富山に帰せないか」
避難生活4日目、携帯は依然つながらず、輪島市内の状況がどうなっているか詳しくわかりませんでしたが、帰省中に被災した弟一家の7人を連れて、歩いて10キロ先の輪島市の市街地を目指すことにしました。
道を埋め尽くした土砂の上を歩いて乗り越え、背丈よりも大きな岩の間をすり抜けて進み、3時間半かけて輪島市中心部の市街地にたどりつきました。
輪島市役所は物資の受け入れ作業などで混乱していて、近くにいた職員に声をかけて尋ねましたが情報は得られませんでした。
その後、勤務先の同僚から連絡があり、能登空港から金沢市に行くバスがあることがわかりました。
弟家族はさらに15キロ先の能登空港まで歩いて向かい、そこで1泊して次の日金沢市に入り、そこから富山の自宅に帰ることができたということです。
男性はまた歩いて、孤立が続く深見町の地区に戻りました。
6日目 ヘリでの救助決まる
避難生活6日目、地区の区長が集落の人たちを集めました。
「自衛隊のヘリコプターでの救助が決まった」ということでした。
男性によると、住民の中には「離れたくない」と訴える人もいたということです。
それでも区長は「慣れ親しんだ場所だが、余震で崖が崩れかねず、危険な場所だ。命の危険が迫っている」と強く訴えました。
このあと、全員が集落を離れることを決めたということです。
90歳になる男性の父親も不安そうな様子でしたが「地区のみんなが一緒だ」と伝えると納得したと言います。
小さなボディーバッグに貴重品だけを入れ、男性の父親は自衛隊の隊員に背負われて国道に出ると、近くの田んぼにヘリコプターが着陸しました。
8日目 ヘリで地区を離れる 2次避難先の小松市へ
父親はその日にヘリで運ばれましたが、雪などの悪天候の影響もあって男性と妻は2日後の今月8日に地区を離れました。
救助を決めてくれた人や、自衛隊の方には感謝しています。一方で、いつ集落に帰ってこられるのか、本当に帰ってこられるのか、これからどうなってしまうのかという不安の中で地区を離れました。
男性と妻は、90歳と高齢の父親がいるため「2次避難」の場所として今、石川県小松市の旅館の一室に身を寄せています。
電気やトイレが使えてごはんを食べられるありがたさをかみしめています。しかし、まだ今も避難所におられる方が大勢いる中で、高齢の父がいるということでこういうところに避難させてもらい、申し訳なさを感じているのも正直なところです。
故郷は復興できるのか いつ帰れるのか
生まれ育った土地を離れて新たな避難生活が始まりましたが、今一番不安なことは「これから地元はどうなるのか」ということだと話しています。
何から考え、どこから行動したらいいのかわからない状態です。でもまずは、“輪島は復興に向けて頑張っていく”という行政の声が聞きたいです。
私たちは生まれ育った輪島に帰れるのか、見通しでもいいので情報が欲しいです。少し先のことでもいいので輪島が復興に向けて動いていることを知ることができれば、苦しくても我慢できます。
ここまで、輪島市から集落ごと避難した男性の話をお伝えしました。
一方で、今なお孤立状態で、厳しい状況のままの集落もあります。
孤立集落の情報をまとめた記事はこちらです。
孤立状態 少なくとも793人「1時間歩き食料調達」石川【13日】
なお、この地区の孤立の情報は今月3日、地区に親がいるという県外の家族からNHKの「ニュースポスト」への投稿で寄せられたものでした。
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