証言 当事者たちの声美咲へ ママはさがし続けるからね

2021年4月19日事件 事故

みーちゃん。

3月に受け取った通知表には、担任の先生のこんなことばが書かれていたよ。

「2年2組には毎日、美咲さんの存在がありました」

あなたのいない教室で、先生が「小倉美咲さん」と名前を呼ぶと、みんなが「待ってるよ」と返事をしてくれたそうです。

毎朝、1日も欠かすことなく。

ママがあきらめてしまったら帰ってこられないと思うので、無事でいると信じて、さがし続けるからね。

なぜついて行かなかったのか 消えない後悔  

小倉美咲さん(小学1年生のとき)

あの日は、3連休初日の土曜日でした。

長女と次女の美咲を連れて、正午すぎにキャンプ場に到着。
7つの家族のグループが参加する2泊3日のキャンプが始まりました。

午後3時半ごろ。
広場でおやつを食べ終わったほかの子どもたちは、沢に水遊びに向かいます。

食べ終わるのが10分ほど遅くなった美咲が聞いてきました。

「みんなのところに行ってもいい?」

美咲は、何も言わずにどこかに行ってしまうこともあったんですが、あのときは私にわざわざ聞いてきたんです。

「いいよ」

みんなのところに向かう美咲を見送りながら、ずいぶん成長したなと心の中で思ったのをすごく覚えています。

そのときのニコッと笑ってうれしそうに走っていく姿が、目に焼きついて離れません。

あのとき、どうしてついて行かなかったんだろう。

私がついて行ってさえすれば、こんなことにならなかったのに。

何度も何度も何度も。
同じことばかり考え、自分を責めるしかありませんでした。

みんなが遊んでいた場所までは100メートルもありません。
大人たちもすぐに合流したので、空白の時間は10分ほどです。

なのに消えてしまったんです、美咲は。

何の痕跡も残さずに。

事実無根のデマ ネットに「自首しろ」「自宅写真」まで

メッセージの一部

自分を責めるしかなかったと語った、母親のとも子さん。

美咲さんが行方不明になった直後に相次いだのが、とも子さんを標的にした事実無根のひぼう中傷でした。

多くの人に情報提供を呼びかけるため報道陣の取材に積極的に答えていたのを非難され、さらに犯人扱いされました。

SNSに「自首しろ」と書き込んだり、自宅の写真を勝手に撮影して載せたりする人もいたといいます。

とも子さん
「美咲を捜すためにSNSで協力を呼びかけ始めたら、『娘が行方不明になってネットができる神経がわからない』『ふつうだったら寝込むはず』と非難されました。でも私が倒れたら捜してくれる人がいなくなってしまうと思い、体も気持ちもぎりぎりの状態でしたがやるしかありませんでした」

去年8月には、とも子さんのSNSのアカウントに「お前が犯人だろ」「殺すぞ」と脅迫するメッセージを送ったとして男が逮捕され、有罪判決を受けています。

とも子さん
「『自宅に行く』とツイートされるとやっぱり恐怖ですし、なかなか中傷はゼロにはなりません。でもインターネットを使って情報を呼びかけることも、私にできることの1つだと思っているので、何があっても続けます」

長女は不登校に 一変した家族の生活 

美咲さんが行方不明になって、家族の生活も一変しました。

会話は少なくなり、当時小学4年生だった長女は、一時不登校になりました。

長女は、学校に行くたびに美咲さんのことを聞かれるのがつらくなり、外出すらできない日が続いたといいます。

とも子さん
「行方不明になって20日間くらい私はキャンプ場にいたので、長女はおじいちゃんおばあちゃんに預けていました。学校で『美咲ちゃんどこにいるんだろうね、大丈夫?』と聞かれるたびに、長女は気を遣って『大丈夫』と答えていたそうです」

「私が自宅に帰ってきた日に『みんなに聞かれて答えるのがつらい。みんな“美咲ちゃんのお姉ちゃん”って呼ぶ。自分が自分でなくなっちゃった』と泣き叫んだんです。『もう学校にも行きたくないし、誰にも気なんか遣いたくない』って」

60万枚のチラシ 見つからない焦りと恐怖

それからは、自宅のある千葉県成田市と現場のキャンプ場を往復する日々でした。

新型コロナの影響で行けない期間もありましたが、現場にはこれまでに50回以上通い、情報提供を呼びかけてきました。

配ったチラシは、60万枚に上ります。

開設したホームページ 

去年10月には、応援してくれる有志とともに、当時の状況や美咲さんの特徴などを記したホームページを開設しました。

とも子さん
「今では、SNSのメッセージのほとんどは『無事を祈っています』とか『絶対に戻ってくるから大丈夫』と声をかけてくれる人ばかりで励まされています。当時、私を非難していた人の中で、支援してくれるようになった人もいるんです」

2020年12月

しかし手がかりは得られないまま、時間だけが過ぎていきます。

去年12月の年の瀬に現場を訪れたときには、次のように話していました。

「何十回とこの道を通って、娘の名前を呼んだなって振り返りながら来ました。また美咲がいない年明けになってしまうのかと、焦りと恐怖を感じています」

通知表に書かれた担任のことば

行方不明になってから1年半。
当時、小学1年生だった美咲さんは、この4月から3年生です。

部屋の勉強机やランドセルなどは、そのままの状態にしています。

一方で、増えたものもあります。

2年生、そして3年生と進級のたびに受け取った、新しい教科書です。
美咲さんが帰ってきたらすぐに学校に行けるように、とも子さんが名前を書いています。

そして、3月に届いた昨年度の通知表。

出席日数がないため、学習の評価は付いていません。
ただ担任の所見には、こう書かれていました。

「2年2組には毎日美咲さんの存在がありました」

通知表

とも子さん
「通知表をもらったあとに聞いたんですが、毎朝の健康観察で、先生が『小倉美咲さん』と名前を呼ぶと、クラスの子たちが『待ってるよ』と返事をしてくれたそうです。1年間、毎日続けてくれたということで、それを聞いたときには涙が止まりませんでした」

「折り紙で美咲の人形を作ったり、手紙を書いてくれたりした子もいました。学校が本当に大好きな子なので、こういうお友達のもとに戻してあげたいと強く思います」

取り戻したい“当たり前の幸せ”

入学式での美咲さん・とも子さん

一時不登校になった長女は、先生たちのサポートなどもあり、今では学校に行けるようになりました。

長女とは、こんなやりとりがあったそうです。

「毎年、娘たちの誕生日が来ると、ディズニーランドでお祝いしていました。去年の長女の誕生日に『久々に行こうか』と聞いたら、『美咲が帰ってきてから一緒に行った方が楽しいから、行かない』と言われたんです。ああ、とても強くなったな、私も強くならなきゃなって、逆に励まされました」

とも子さんが取り戻したいのは、“当たり前の幸せ”です。

「子どもが学校に笑顔で行ってくれて、仕事して、家族で夕飯を食べられるということがいかに幸せなことだったのかと今になって思います。美咲がいなくなって、当たり前の幸せに気がつきました」

「周りの人たちの応援など、今は小さなことにも喜びを感じていますが、美咲が戻ってこないとやっぱりどうしようもありません。帰ってきたときに『よく帰ってきたね』と支えてあげられるくらい強くならなきゃねって、家族でよく話すようになりました」

取材後記 

3月下旬。
とも子さんの姿は、幾度となく通い続けている現場のキャンプ場にありました。

2021年3月

現場を管轄する警察署の担当者とともに、キャンプ場と近くの道の駅でチラシを配って情報提供を呼びかけました。

とも子さんは、この1年半を次のように振り返ります。

「美咲を見つけたい一心で、無我夢中で過ごしてきましたが、1年半という大切な時間を美咲は失っています。母親としてその時間を一緒に過ごせなかったのはすごく悲しいですし、寂しい思いをさせて申し訳なく思います」

その上で、「絶対に諦めません」と力を込めました。

「美咲はどこかで無事でいると信じています。私が諦めてしまったら帰ってこられないと思うので、これからもいろんな人の助けをお借りして、捜し続けるつもりです。全国の皆さまには、どんな小さなことでもかまわないので、情報を寄せてもらえたらありがたいです」

甲府放送局に赴任して3年。

行方不明になったときから継続して取材していますが、とも子さんはいつも丁寧に応じてくれます。

「どうして毎回、取材を受けてくれるんですか」と聞くと、こう答えました。

美咲が帰ってきてくれるなら、私は何でもやりますよ

美咲さんのために行動し続ける姿をずっと見てきて、母親って強いなと改めて感じ、記者としてこれからも報じ続けていきたいと心から思いました。

情報を求めています
▽行方不明になったのは、2019年9月21日。
▽現場は、山梨県道志村の「椿荘オートキャンプ場」。
▽美咲さんは当日、黒のハイネックの長袖に青系のジーパンを身に着け、エメラルドグリーンのスニーカーを履いていた。
▽口元の右側にホクロあり。
▽連絡先は、山梨県警・大月警察署 「0554-22-0110」。
▽とも子さんが開設したHPはこちら https://misakiogura.com/(NHKのサイトを離れます)

右の写真はマスク姿の美咲さんです
  • 甲府放送局記者 宇佐美貫太 2019年入局 
    警察・司法を担当
    大学時代まで野球に打ち込む

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