追跡 記者のノートから日航機墜落 事故調査官100ページの手記に書かれていたこと

2021年8月11日事故

520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から36年。

国内最悪の航空機事故を調査し、報告書をまとめた調査官らが手記を残していたことが、去年、NHKの取材でわかりました。

調査官限りの内部文書とされ、これまで決して表に出ることのなかったおよそ100ページにわたる手記。

そこに書かれていたこととは。

(沖縄放送局デスク 山口健)

"史上最大の航空事故"

36年前、日本航空のジャンボ機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が犠牲になりました。

単独の航空機事故としては史上最悪の悲劇でした。

事故から2年後、墜落の主な原因などについてまとめた事故調査報告書が公表されました。

報告書ではアメリカのメーカーの修理ミスにより客室内の圧力を一定に保つ圧力隔壁が破損。

その結果、機内の空気が客室後部に一気に吹き出し、垂直尾翼の大半が失われ、操縦が困難な状況に陥ったと推定されると結論づけられました。

100ページの手記に書かれていたこと

事故の2年後にまとめられた手記

報告書の公表後、事故調査官ら11人は調査の過程を振り返って今後に生かそうと、手記をまとめていました。

報告書は付録もあわせておよそ600ページありますが、調査官の思いは直接記されてはいません。

偶然、手記の存在を知った私は、手記を入手することで調査官がどのような思いで調査をし、現場で何を感じていたのかに迫れるのではと考えました。

およそ100ページに上る調査官限りの極秘の内部文書。

そこには厳格に調査にあたる調査官の姿勢や葛藤、人間味あふれる感情が隠されることなく赤裸々に描かれていたのです。

奇跡の生存者の証言

事故調査官による現場調査

手記によると、事故翌日の8月13日朝、藤原さんたち調査官はヘリコプターで初めて現場を確認しました。

調査官のひとりは「いろいろな事故を見てきたが、こんなに壊れかたがひどく、飛行機の形の残っていない事故現場は初めてだ」と振り返っています。

そして、生存者4人を発見したという情報が入ってくると、調査官は直ちに病院に直行。

乗客として搭乗していた日本航空の客室乗務員から、極めて重大な証言を得ました。

その時のやり取りです。

生存者への聴き取りは病室で行われた

手記より
「あのう、デコンプ(※急減圧)があったんです」

(中略)

彼女がスチュワーデスであることを初めて知った。

我々はR5ドア(※後部ドア)が気になっていたが「ドアは飛ばなかったんですが、後の天井付近が壊れて…」と話してくれた。

(中略)

疑われていたR5ドア(※後部ドア)ではないらしいが、デコンプはあったということが判ったことだけでも大きな成果であった。

これで、DFDR(※飛行記録装置)とCVR(※音声記録装置)の回収が更に重要になった。

見つかった決定的な証拠

次の日の14日、藤原さんたち調査官は初めて現場に入ります。

バラバラになった翼の部材が沢に突き刺さっている様子を目の当たりにするとともに、客室内の断熱材が水平尾翼の中に大量に入り込んでいるのを発見。

そして下山時刻直前の午後2時9分、決定的な証拠となるDFDRとCVRを発見したのです。

手記より
もしこのDFDRとCVRが何日も見つからなかったならば、我々も焦ったろうし、霞が関からもプレスからも相当に非難されたと思う。

貴重な証拠をゴミ袋に…

記者会見する藤原洋 次席調査官(昭和60年8月)

この証拠は、毛布にくるまれた状態で現地の対策本部に届きます。

中身を撮影したいという報道陣と、一刻も早く解析を急ぎたい事故調査委員会との押し問答が始まり、対応していた調査官の焦る心境も記されていました。

そんな中、証拠は、ある機転を利かせた対応で、東京に運ばれていきました。

手記より
問題のDFDRとCVRをどうやって報道陣の目を逃れて外へ運び出したのだろうか?

結論からいうと、警察の大きなゴミ袋の中へ入れて、あたかもゴミを捨てるようなそぶりで堂々と報道陣の中をかきわけて運び出し、一般車両に積んで東京へ運んだのだそうだ。

その道のり、調査官は車のトランクに入れるのではなく、ひざの上に抱えていったと記されていました。

この証拠がいかに重要か、調査官の思いが伝わってきます。

わずか2日で原因に迫っていた

東京に運ばれた証拠の解析は、すぐに始まりました。

事故発生から3日目の未明でした。

焦点は、一連のいきさつが最後まで記録されているかどうか。

今回の事故は異常発生から墜落までおよそ31分間でしたが、装置に記録できる時間は30分だったからです。

装置の中のテープを取り出したときの様子です。

手記より

くしゃくしゃで切れかかった部分があったが、ほんの数センチをオーバーラップさせるだけで修復は完了した。ここが解析に影響のない部分であったのが何よりであった。

このCVRはエンドレス・テープで録音時間が約30分であるため、何事かが発生した時刻の18時25分頃の録音は消されているという大方の見方であったが、その心配は再生数十秒後に消し飛んでしまった。

大変な音を聴いてしまった。この音はこれまでの私の人生で聴いたどの音より強く印象に残っている。

これまでの人生で最も印象に残った音だった

録音されていたのは32分10数秒。

実際の録音時間は2分余り長く、異常発生の瞬間が記録されていました。

この決定的な証拠と生存者の証言から、藤原さんたちは客室内の気圧を保つ圧力隔壁と呼ばれる設備が破れた可能性があると推測しました。

2年後に公表される事故原因の核心に事故からわずか2日で迫っていたのです。

ラジオに盗聴マイク?

手記には、「ラジオの差し入れ名乗らぬ市民の好意」と題されたエピソードが記されていました。

読み進めると、激励で差し入れられたラジオを活用していたら、事故調の情報が報道陣に漏れていることで、ラジオが疑われたという、思わぬ顛末でした。

手記より
ひょっとしたら、委員室に盗聴マイクが仕掛けられているのではないか心配し、専門の捜査員に捜して貰ったが何もでてこない。そこでついにこのラジオまでが疑われることになった。

ひょっとしたら、盗聴マイクが組み込まれているのではないかというわけである。

そこで、警視庁の捜査員立会いのもとに、このラジオを分解してしまった。

結果は「白」。なにも怪しいところはなかった。

一時にせよ、名乗らぬ善意の市民の好意を疑ってしまい、誠に申し訳ないことをしてしまった。

背景には報道陣の連日の取材の激しさがあったのですが、調査官限りの手記で名もなき市民に謝っていることに、調査官たちの誠実な人柄を感じました。

コミュニケーションの重要性

コミュニケーションの重要性も随所に記されていました。

調査の立場からは当たり前のことでも、別の立場からは理解されないことがままあったからです。

現場は、群馬県上野村、群馬県警、応援の警視庁、自衛隊、海上保安庁など複数の機関がいました。

救助・捜索活動のはざまで、調査の意義を理解してもらい、速やかに進めるためには、各機関との調整が欠かせず、重要な依頼・申し入れ事項はすべてトップに行うようにしたという記述がありました。

誠実な人柄も

手記には、事故からおよそ4か月後の12月の中旬、雪深くなる前に最後の残骸調査が行われたときのことも記されていました。

それまでは地面ばかり見ていましたが、木の枝に引っかかる形で残っているものがあると連絡があったからでした。

手記より
今まで何回か登山をしたが、上を向いて歩いた登山は今回が初めてであった。

しかし、これも坂本九さんが事故原因を調べてくれと頼んでいるような気がして、ご冥福を祈りながら家路に着いた。

ここからも、調査報告書からはうかがい知れない調査官の人柄が伝わってきました。

なぜ取材に応じてくれたのか

藤原洋 元次席調査官

取材に応じてくれた当時次席調査官だった藤原洋さん(93)です。

旧運輸省を定年後も現場の御巣鷹の尾根に慰霊の登山を続けてきました。

昭和62年に公表された事故調査報告書では、事故の7年前に起きたしりもち事故の際に行われたアメリカのメーカーによる修理ミスが事故の主な原因とされました。

しかし修理ミスがなぜ起きたのかについてはアメリカの協力が得られずできませんでした。

藤原洋さん
「なぜ修理ミスをしたのか、アメリカ側に何回申し入れても最後まで回答がもらえず原因を究明できませんでした。

それについて批判を受けてもしかたなく、一生背負っていくことになると思います」

そのうえで後世に残す教訓としてこう語りました。

藤原洋さん
「初心にかえり、現在やっていることがベストなのか、常に反省しながら仕事をすることが大切です。

今よりもっとよくする方法はないのか、もっと安全に出来る方法があるはずだと考えれば、道は開けると思います」

取材後記

今回の取材を通して、人の命を奪った原因を調べる調査官の厳格な姿勢を改めて知りました。

同時に、調査報告書からはうかがい知れない、人間くさい一面も感じました。

立場は違っても、思いを同じくする1人として、私も事故のことを記録し伝えていきたいと考えています。

  • 沖縄放送局デスク 山口健 2006年入局 航空の安全について継続取材
    2015年に「NHKスペシャル 日航ジャンボ機墜落 空白の16時間」の取材制作など