『最後よければいいや』と思ってやってきた

錦木

大相撲 #苦しいとき

酷暑が続き、土俵にも熱がこもった大相撲名古屋場所。
盛り上げた1人が32歳のベテラン、錦木だった。

2日目に横綱・照ノ富士に勝って4年ぶりとなる金星をあげると、大関昇進がかかっていた豊昇龍、大栄翔、若元春の関脇3人も次々に破り、一時は優勝争いのトップにも立った。

終盤戦で4連敗を喫したものの、東の前頭筆頭で10勝5敗の好成績。
殊勲賞を受賞して歴代で最も遅い、初土俵から103場所での三賞初受賞も果たした。

「(ここまでの道のりは)遠かったのかな。幕内から落ちそうな時期もあったが、充実した道のりだった」

錦木が相撲に最初にふれたのは小学2年生の時。アマチュア相撲の経験者だった父親に誘われたことがきっかけだった。当初はあまり熱心ではなかったという。むしろヤクルトで活躍した古田敦也さんに憧れ、野球に夢中になっていた。

「父から『体づくりのためにやれ。おいしいものを食べさせてやる』と言われてつられてしまった(笑)。でも、その時は野球をやっていたから」

野球好きだった少年が相撲のおもしろさを知ったのは中学生の時だったという。

「中学校は野球部がなくて卓球部だった。相撲の試合も出たし、しこを踏んでいた。県大会や東北大会に出て、結果が出てくると楽しくなっていった」

そして人生の転機が訪れる。
地元・盛岡市で開かれた相撲の催しを手伝っていた時に、会場に訪れていた先代の伊勢ノ海親方から「いい体をしているね」とスカウトされたのだ。
経験こそ浅かったが、中学2年生の時には、すでに身長が1メートル70センチ代後半、体重も90キロほどあった。その後、体験入門を経て、中学卒業を機に角界入りすることを決めた。

「勉強が嫌いだったので(笑)。体験入門に行ってやっていけるかなと思った。プロの世界ってどんなところだろうと思って、やってみたいなと思った」

しかし、大相撲の世界は甘くはなかった。
初土俵の平成18年春場所、2勝した力士から出世が決まっていく前相撲ではなかなか勝てず、最も遅い三番出世だった。
その後も勝ち越しと負け越しを繰り返し、幕下以下での生活が長く続いた。
その間、初土俵の同期生だった栃ノ心や松鳳山、竜電などが次々と関取への昇進を果たしていった。しかし、錦木に焦りはなかった。

「同級生がどんどん出世して早いなと思っていたけど。『最後がよければいいや』と思っていた」

それは真面目に稽古を積む錦木だからこその言葉だ。
今でも場所前はほぼ毎日、出稽古に赴いたり、巡業先で真っ先に土俵に上がったりするなど地道な努力を欠かさない。
結果に結びついたのは初土俵から9年がたった平成27年夏場所。

新十両に昇進した。
翌年には念願の新入幕を果たした。

地道に実績を重ね入門18年目の32歳となったことしの夏場所、錦木の殻を破るできごとがあった。7日目まで1勝6敗と苦しんでいたときのこと、伊勢ノ海部屋の親方である元関脇・土佐ノ海の立川親方からアドバイスを受けたのだ。

「『そんなに焦らなくても土俵に残せる』と親方に言われた。それで1回落ち着いて考えてみて、焦って前に出てもはたかれるなら焦らないと」

もともと錦木は「重い腰」を生かしてじっくりと圧力をかける相撲が持ち味だ。
しかし、この時は土俵に残ろうという意識が強く、無駄な動きが多かったという。立川親方のことばでみずからの強みを思い出した錦木。
次の日から千秋楽まで8連勝と勢いに乗って9勝6敗と勝ち越した。

自己最高位の東の前頭筆頭に番付を上げて臨んだ名古屋場所。その強さを「本物」と実感させたのが2日目からの快進撃だった。

2日目は横綱・照ノ富士戦。
重い腰で相手の立ち合いを受け止めるとすくい投げで金星。

そして3日目からの関脇との3連戦。
場所後に新大関となった豊昇龍、力強い突き押しの大栄翔、左四つが強力な若元春。

いずれ劣らぬ鋭い攻めを重い腰でしっかり受け止めてから勝利をつかんだ。
自分の強みを出せば上位陣にもひけを取らないと自信を持った。

「相撲内容は変わらないのではないか。ぶれないとか慌てないとか、気持ちの面が変わったのではないかと思う」

名古屋場所で好成績を収めたことで歴代では3番目に遅い、新三役昇進にも大きく前進した。それでも錦木は満足しているわけではない。終盤戦まで優勝争いのトップに立ちながら最後は4連敗で場所を終えた悔しさがぬぐえないという。

「最後よければいい」という言葉を実現するその日まで、32歳のベテランはこれからも稽古を重ねていく。

「最後は勢いがなくなっていた。最後に4連敗、一番は勝ちたかった。(三役に)上がってもこれだけの成績を残せるように、思い切って稽古に励んで相撲を取っていきたい」

大相撲 #苦しいとき