日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人は今

日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人は今(2020年8月17日 ラジオセンター 西垣幸児デスク)

この夏に公開されて話題になっているドキュメンタリー映画があります。

「日本人の忘れもの~フィリピンと中国の残留邦人」です。

日本の敗戦によって家族が分断され、子どもたちの多くは現地に取り残されました。十分な教育は受けられず、貧しい暮らしを強いられるなど過酷な人生を過ごすことになった、いわゆる残留孤児の問題をテーマにしています。
太平洋戦争の終結から75年という節目の年に、今も続く戦争被害者の実情に迫りました。

フィリピン残留日本人とは

戦前に進められた日本人の海外移住のなかで、フィリピンへの移住は1903年から道路建設のために始まりました。

麻の生産地 ダバオ

その後、軍需物資の麻の生産地だった南部のダバオに多くの日本人が移住し、アジア最大の3万人に上る豊かな日本人の移民社会が築き上げられました。

ピクニックを楽しむ日本人(フィリピン北部のバギオ)

移住した日本人男性は、現地の女性と結婚し、子どもに日本人の名前をつけて日本人として育てました。

マニラに向かう日本軍(1942年)

しかし戦争が始まって日本軍がフィリピンを占領すると戦時体制に組み込まれ、日本人の父親は軍人、軍属に徴用されました。

戦争末期、追い込まれた日本軍は、アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラをおそれ、女性や子どもまで協力者と見なして残虐行為におよびました。

戦後にフィリピン当局が行った対日戦犯裁判で起訴された内容には、民間人に対する残虐行為が数多く含まれていました。

日本軍への恨みは、戦後、現地に取り残された日本人の家族に向けられました。私(西垣)がフィリピンで特派員として駐在していた1995年は戦後50年の節目にあたり、多くの残留日本人を取材しました。

当時68歳だった萩尾行利さんは18歳で日本軍に徴用され、収容所に入れられましたが、その間に2人の弟がゲリラに殺害されました。それを目撃した母親はショックで倒れ、まもなく亡くなりました。
萩尾さんは島に逃れて目立たないように暮らしたといいます。

赤星ハツエさん

映画「日本人の忘れもの」の冒頭に登場する赤星ハツエさん(94)も、父親が日本に強制送還され、母親、姉妹と共にダバオ郊外の家を捨て、山奥に逃げて暮らしていました。

赤星さんは、当時を振り返って日本語でこう話します。

赤星ハツエさん
「たくさん逃げたんです。逃げんと殺される。フィリピンの兵隊から。私たちは川向こうに逃げたんです」

残留日本人の多くは家を追われ、財産も奪われ、十分な教育を受けられずに貧しい暮らしを強いられました。

撮影する小原浩靖 監督(右)

映画の監督・脚本を手がけた小原浩靖さんは、それまではコマーシャルの制作などが主で戦争をテーマにした映画とは無縁でしたが、フィリピン残留日本人の存在を知って戦後75年の節目に伝えたいと、映画を作りました。

小原浩靖 監督

小原浩靖 監督
「いざロケに行ってジャングルの奥深くとか離島に暮らしている貧しいおじいちゃん、おばあちゃんを目の前にすると、東京に住んでいて近所ですれ違ってもおかしくないおじいちゃん、おばあちゃんが日本人として認めてもらいたいと、お父さんの国、日本に恋い焦がれている姿を目の当たりにする」

なぜ国籍が認められないのか

日本の外務省は1995年から支援団体の要請を受けてフィリピン全土での調査に乗り出し、2000人余りが日本人の子どもだと名乗り出ました。
しかし身元判明につながる資料を持っている人は全体の3割にとどまりました。

フィリピン残留の日本人は、日本人の子どもであることを隠すために父親の名を捨てて、母親の名を名乗って生きてきた人が多かったからです。
この間、日本人の子どもであることを裏付ける出生証明書や父親の写真などを戦災でなくしたり、迫害を恐れてみずから処分したりした人も多く見られます。

このため支援団体は、渡航記録や本人の陳述書、父親を知る人の証言などを積み上げて家庭裁判所に申し立て、国籍を取るという地道な作業をしてきました。

現在、残留日本人を支援しているNPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンターによりますと、これまでに2894人が国籍を取得しましたが、いまだに900人を超す人の国籍が取れず、無国籍状態になっているということです。

手続きを進められるのは年間20人が限界だということで、すべての人の国籍が認められるには50年近くかかる計算になります。


中国残留孤児にとっての国家とは

肉親探しのために来日した中国残留孤児(1982年)

一方の中国残留孤児の問題はどうなっているのでしょう。
1931年に中国東北部の「満州」で日中両軍が衝突した「満州事変」のあと、日本は「満州国」の建国を宣言。国策として32万人余りの日本人を農村などから入植させました。
しかし1945年8月9日にソ連が満州に侵攻して戦場と化し、親とはぐれた子どもが残留孤児になりました。

その後1972年の日中国交正常化をきっかけに、国による調査が進みました。

田中角栄首相(右)と毛沢東 中国国家主席(1972年9月)

日本に永住帰国した孤児は家族も含めると2万人に上りますが、ことばの壁が大きく立ちはだかりました。

帰国者の平均年齢は44歳を超え、そこから日本語を一から覚えるのは並大抵ではありません。仕事を見つけるのも難しく、生活の基盤を築けず、多くの人が生活保護を受けていました。

孤児たちは2002年から、国に賠償を求める集団訴訟を15の地方裁判所で起こしました。国が孤児たちを早期に帰国させる義務を怠り、帰国した孤児たちの自立支援も怠ったというのが提訴の理由でした。

2006年に神戸地方裁判所が原告の訴えを認める判決を出したことをきっかけに政治決着が図られ、孤児たちは年金の満額支給などの支援を得られるようになりました。
生活の基盤は、得られるようになりましたが、いま問題なのは、孤児たちの高齢化です。

2015年の厚生労働省の調査では帰国者の平均年齢は76歳。4人に1人が要介護認定を受けています。介護や医療の問題が深刻になっていますが、中国語が通じる施設は少ないのが実情です。

このためここ数年、孤児の2世、3世が中心になってケア施設を立ち上げ、孤児たちの老後の世話をしています。

中国語が通じる通所介護施設「一笑苑」

国の支援は利用できる施設をインターネットで紹介するなどの側面支援にとどまっています。残留孤児の矢嶋克子さんは映画の中で、孤児たちの心の内をこう語っています。

残留孤児の通訳支援をする矢嶋克子さん(右)

矢嶋克子さん
「矢嶋さんはいいね。親が分かって、戸籍が分かっていいね。私たちは、戸籍も分かんない。日本人と言われたから日本人なんでしょう。中国にいる時は『日本人が』と、いじめられ、日本に帰ってきたら『中国人』っていじめられて。祖国って何だろうなって。よく聞かれたけどね」

「私たちの戦後は終わっていない」

フィリピン残留日本人も、平均年齢が80歳を超えました。去年10月、これが最後の訴えと、寺岡カルロスさんら代表者が日本を訪れて、国会議員に支援を求めました。

陳情を読み上げる寺岡カルロスさん

寺岡カルロスさん
「私たちの長い戦後は、いまもまだ終わっていません。年々、何人もの残留者たちが無念のまま天国に行っています。私たち人生最後の瞬間に日本人の父の子どもでよかったと思うことができるようどうかお力をお貸しください」

しかしなぜ彼ら邦人たちは、現地にとどまったのか。敗戦に伴って国は、海外の邦人に現地にとどまるよう指示していました。
戦争が終わってから、GHQ=連合国総司令部の指示で残留者の引き揚げが進められましたが、中国やフィリピンの残留孤児には帰るすべがありませんでした。

小原監督はダバオの歴史資料館で、日本軍に徴用された橋本茂さんが家族に宛てた遺書に目を奪われました。
そこには大日本帝国は父の国で、あなたたちの保護者であることは間違いないとする内容がしたためてありました。

橋本茂さんの遺書

小原監督は残留者たちが日本という国に保護されず置き去りにされた状態は、いまも続いていると訴えています。

小原浩靖 監督
「ここで描かれているフィリピン、中国の残留者の方は、幼くして父親と離れ離れになってしまった。または、親を失ってしまった。戦争という国策によって人生にダメージを受けた。戦争が起こした被害は75年たっても消えないものなんだということですね」

映画の試写会での小原浩靖 監督(左)

戦争という国策の被害者でありながら国の保護を受けていない人たちが、戦後75年たったいまも数多くいます。そのことを国も、そして私たち一人一人も忘れてしまっているのではないでしょうか。

そうした問いを、この映画「日本人の忘れもの~フィリピンと中国の残留邦人」は突きつけていると思います。

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