この夏から広島市の平和公園の一角に、1台のピアノが展示されています。大切にしていたのは、19歳で原爆の犠牲になった少女。母親と連弾を楽しむなど、幼いころから演奏していたピアノでした。
今は“物言わぬ語り部”となった被爆ピアノと、一緒に残されていた少女の日記。そこには平穏な日常を次第に奪っていく戦争の姿が刻まれていました。
広島市の平和公園の一角にある被爆建物の「レストハウス」は、長年、市の観光案内所などとして利用され、ことし7月に改修工事を経て再び一般公開されました。
この「レストハウス」のリニューアルに伴って2階の喫茶ホールに展示されることになったのが、原爆の爆風にさらされながら耐え残った「被爆ピアノ」です。
原爆が投下された時に爆心地から約2.5キロの住宅にあったピアノの側面には、無数の傷痕が残り、飛び散ったガラス片が今も突き刺さったままです。
ピアノを愛用していたのは、当時19歳だった河本明子さんです。
戦前、父親の仕事の関係で暮らしていたアメリカで生まれ、当時は珍しかったピアノとともに育ちました。
6歳で広島に戻るときも、このピアノを大切に持ち帰りました。日本が国際連盟を脱退するなど、国際社会で孤立を深めつつある時期でした。
明子さんは、広島の小学校に入学した時から日記をつづり始めていました。
残された明子さんの日記は、亡くなる前年までに書かれた21冊。最初のころは、すべてカタカナです。
「きょう学校から帰るときに、ピヤノの本をもらいました」
「月曜と水曜と金曜にピヤノを習います」
(昭和8年9月 7歳当時の日記)
時には母親と一緒に連弾を楽しむなど、ピアノについての記述が多く見られます。しかし少女が記していた穏やかな日常は、大きく変わっていきます。
昭和12年に日中戦争が始まってからは、ピアノとともに軍に関する記述が多くなっていました。
「きょうは学芸会でした。私はピヤノと進軍の歌、愛国行進曲を歌いました」
(昭和13年3月 11歳当時の日記)
次第に勤労奉仕や防空訓練に追われるようになり、暮らしは戦争一色になっていきます。
昭和16年、真珠湾攻撃とともに太平洋戦争が始まってからは、日記からピアノの話がなくなりました。18歳のころにつづられていたのは、強い愛国心を持つ女学生のことばでした。
「再び空襲警報は鳴り渡った。こしゃくな。われわれは再奮起せねばならぬ」
(昭和19年7月 18歳当時の日記)
戦況が悪化の一途をたどっていたこのころ、明子さんが記した日記の一節です。
「はや人生の三から四分の一は来た、ことしこそは有意義な年を送ろうと思う」
(昭和19年正月の日記)
そして昭和20年8月6日、午前8時15分。広島に原爆が投下。
学徒動員中だった明子さんは、爆心地から約1キロの場所で被爆しました。なんとか自宅にたどりつきましたが、翌日、両親のもとで息を引き取りました。原爆の放射線による急性の症状だったとみられています。
最期のことばは「お母さん、赤いトマトが食べたい」だったと言います。
家族と一緒にトマトを食べることで、小さな幸せを感じたかったのかもしれません。
原爆投下から75年。両親やきょうだいもすでに亡くなり、今回の取材では明子さんを直接知る人に話を聞くことはできませんでした。
明子さんとピアノについて話してくれたのは、ピアノの管理を親族から託された二口とみゑさん(71)です。
二口さんは戦後、近くに住んでいた明子さんの両親と親交がありました。両親は、亡くなった明子さんについて口にすることはなかったそうですが、二口さんは明子さんの友人のわずかな証言などで伝え聞いています。
二口とみゑさん
「明子さんの両親は明子さんがかぜをひいたら、うがい薬やかぜ薬を持って学校について行ったことがあるほど、本当にかわいがって育てていたそうです。原爆ということも何が起こったのかも全然分からないまま、慈しみ育てた子どもの命が奪われたご両親の悲しみや悔しさは、私の想像する以上のものだったと思いますが、それゆえに語れなかったのではないでしょうか」
被爆ピアノの展示が始まって3週間が過ぎたある日、広島市出身の大学生らがレストハウスを訪れ、特別な許可のもとでピアノを演奏しました。
演奏したのは「アヴェ・マリア」など2曲です。収録した音色をインターネットで世界に配信します。
企画したのは大学4年生の中村園実さんです。
中村園実さん
「同世代の明子さんが亡くなったということに衝撃を受けました。原子爆弾の恐ろしさや平和の大切さを、明子さんのピアノの音色を通して知ってもらいたい。音楽の力はあると思うので、耳にした人に関心を持ってもらえればと考えています」
二口とみゑさん
「アメリカで生まれ、不幸なことにアメリカの手によって命を奪われた明子さんを通じて、若い人たちが『戦争と平和』について考え、行動していってもらえたら」
被爆から75年がたって被爆者の平均年齢が83歳を超えるなか、遺品や建物といった実物を通した被爆体験の継承は重みを増しています。
1人の少女が残したピアノとその音色は時代を超えて、戦争の現実と平和の尊さを伝えていくものだと感じました。