終戦まぎわの西鉄電車への銃撃 犠牲者の名前を探し続けて

終戦まぎわの西鉄電車への銃撃 犠牲者の名前を探し続けて(2020年8月14日 福岡局 松木遥希子記者)

「仕事で県庁まで」
「夜勤明けで自宅へ」
「恋人の見送りに」

75年前も今と同じような電車の日常がありました。それが突然奪われたうえに、事実が語り継がれず風化してしまったら。

昭和20年、終戦の1週間前に福岡県の小さな村で起きた戦闘機による銃撃事件を、公的な記録が残さていない中で調査を続ける男性は、犠牲者の「名前」にこだわり、何が起きたのか明らかにしようとしています。

「車内は血の海、地獄絵図」

アメリカ軍の戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像です。画面中央を走行中の電車に向かって、おびただしい数の銃弾が降り注いでいます。

アメリカ軍は、軍の司令部だけでなく輸送ラインや工場も主要な攻撃目標とし、終戦末期のこの時期には、町や村の民間施設にも攻撃を広げていました。

昭和20年8月8日午前11時半ごろ、筑紫村(現在の筑紫野市)を走行していた西鉄の2本の電車が、突然銃撃されました。

複数の戦闘機から繰り返し機銃掃射が浴びせられた当時の状況について、生存者のひとりは「車内は血の海であり、まさに地獄絵図」と証言しています。

なぜ記録が無いのか

筑紫野市歴史博物館 草場啓一さん

筑紫野市歴史博物館に勤める草場啓一さん(64)は、古墳などの発掘調査に長年携わってきました。草場さんは西鉄への銃撃が地元で起きた悲惨な事件にもかかわらず、公的な記録が残されていないことに「がく然とした」といいます。

草場啓一さん
「情報がなく、誰からも理解してもらえない亡くなり方は、当事者にとっても本意ではないと思います。まるで十把一からげのように、数十人、百人亡くなったという事実だけで終わるのは悲しいと感じ、調査を始めました」

犠牲者は64人?100人以上?

この事件については当初、地元の役場や消防団が犠牲者の名簿を作成していましたが、戦後の火事や水害によって失われていました。

電車を運行していた西鉄は戦後出した社史で「亡くなったのは64人」と説明していますが、地元に残るわずかな記録では銃撃された電車はいずれも2両編成で、車内は満員の状態だったため、100人から200人が犠牲になったという証言があります。

少なくとも100人以上は亡くなったのではないか。草場さんは地元の日常にあった戦争の爪痕を、何とか正確な記録として残せないかと強く思っています。

目撃情報や公的文書を探して

6年前から調査を始めた草場さんは、まずこれまで地元に寄せられていた情報を精査し、事件の生存者や目撃者を中心に聞き取り調査を重ねてきました。

旧筑紫村に残っていたり災証明書

関係者がいると聞けばすぐに駆けつける文字どおり東奔西走で、市役所に残っていた戦時中の書類も確認しました。当時の火葬証明書などを見つけ出して犠牲者の家族にたどりついたこともあります。
調査によってこれまでに11人の身元が判明しました。

突然命を奪われた人たち

生田昌美さん(享年19)

身元がわかった犠牲者の1人、生田昌美さん(当時19)は、地元の女子専門学校(現在の女子大)に通っていました。勤労動員で同級生3人と電車に乗っていたところを銃撃に遭い、背中に傷を負って死亡。遺族が地域の自治会に寄せた文章を草場さんが偶然見つけて、身元がわかりました。

鷲山昇さん(享年49)

鷲山昇さん(当時49)は久留米市でみそを作る会社の顧問でした。大豆の払い下げの陳情のために県庁を訪れようと電車に乗っていました。鷲山さんの娘の証言が地元の中学校に残っていると聞き、草場さんの調査で当時の状況が明らかになりました。

また当時の電車の運行には学徒動員の若者が多く携わっていて、駅の夜勤からの帰りだった当時16歳の女性や、車掌だった当時23歳の女性が犠牲になっていたことも確認されました。

草場啓一さん
「多くの人がいろいろな目的を持って電車に乗られていたんですね。ところが何の予期もせずいきなり銃撃を受けて亡くなっている。無念の思いがいっぱいあったと思います」

消えゆく証言 調査は時間との闘い

犠牲になった車掌の同期だという人を訪ねたもののすでに転居していたり、ずっと探していた目撃者の連絡先をつかんだのにすでに亡くなっていたりしたこともあります。

草場さんは今、調査は時間との闘いだと感じています。戦後75年となる中で事件の関係者は減り続け、草場さん自身も来年、定年を迎えます。残された時間は少ないと焦りを募らせています。

草場啓一さん
「ちゃんと記録しておかないと、やはり人は忘れていくんですね。亡くなった方のお名前があれば遠いよその出来事ではないということを伝えていけるのではないかと思います」

彼女の生きた証を残したい

92歳の明神貢さん

草場さんの調査に協力している生存者の男性に、話しを聞くことができました。広島市の明神貢さん(92)は、一緒に電車に乗っていた恋人の二宮ヒロさん(当時18)を銃撃によって亡くしました。
銃撃事件の情報を募集する記事を見て、名乗り出ていました。

当時、地元の広島から福岡の学校に進学した明神さんは、学徒動員で配属された会社で二宮さんと出会いました。そして士官学校に入ることが決まった明神さんを見送ろうと二宮さんが一緒に電車に乗っていて、事件に遭遇したのです。

二宮ヒロさん(享年18)

明神貢さん
「急に何が起きたのかわからない状況でした。彼女は私の左側にいて、並んでつり革を持っていたと思います。彼女は真っ白い服を着ていました。背中を見たら大きな穴が空いていて、すぐにひざをついて崩れてしまったんです」

銃撃の際に明神さんも左腕を銃弾が貫通する大けがで病院に運ばれ、二宮さんを救出することはできなかったといいます。

明神さんは二宮さんの死を家族にもほとんど話さず、戦後もずっと胸に秘めて写真を持ち続けてきました。そうした中で草場さんと出会い、広島まで何度も足を運ぶ草場さんから、二宮さんの名前を市の報告書に載せたいと言われました。

明神さんは、彼女の生きた証しが残ることはうれしかったといいます。

明神貢さん
「私が死んだら二宮ヒロという人がいたことはもうわからなくなってしまう。ありがたいことだと思います」

名前にこだわり続ける思い

猛暑が続くこの夏も草場さんは調査を続けています。この日は学徒動員で当時運転手として働いていた男性(92)のもとを訪れました。

戦後に当時の運転手や車掌たちと何度か同窓会を開いたという男性が見せてくれたのは、車掌だった女性たちの名簿でした。調査の進展につながりうる貴重な資料です。草場さんは早速コピーを取らせてもらうことにしました。

この新たな手がかりを頼りに1人でも多くの「生きた証し」を明らかにしたいと、思いを強くしています。

私(記者)が今回の取材を始めたきっかけは、この春に転勤で地元の福岡に引っ越してきた際、何気なく手に取った筑紫野市の冊子にあった、この銃撃事件の短い記事でした。地元出身の私も事件のことは全く知らず、もっと話を聞きたいと、歴史博物館に草場さんを訪ねました。

取材を進めるなかで、犠牲になった人たちの「名前」がその人生や物語も表し、名前を残す行為がいかに大切かを実感するようになりました。草場さんが私に語ったことが強く心に残っています。

草場啓一さん
「犠牲者の名前がわからないというのは、銃撃事件を継承していくうえで、無機質な現象になってしまう。そこに多くの人の血が流れたということをちゃんと記録していかないといけない、それが後世に残された私たちの務めだと思います」

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