首里城の地下に眠る戦跡 旧日本軍司令部壕

首里城の地下に眠る戦跡 旧日本軍司令部壕(2020年8月12日 沖縄局 松下温記者)

去年(2019年)大火災に見舞われた沖縄の首里城の地下に、75年前の沖縄戦の悲劇を物語る場所がある。これまで立ち入りが厳しく制限されてきたが、今回初めて内部の奥深くにテレビカメラが入った。

初撮影 沖縄戦の司令部壕奥深くへ

「ギチィッ、ギチィッ」。固く閉ざされていた鉄製の扉を引くたびに、経年によってゆがんだ鉄枠と地面のすれる音があたりに響きわたる。

沖縄の象徴、首里城正殿から南西に300メートル下った森の中に、75年間ほとんど人目に触れることなく眠り続ける戦跡がある。

「第32軍司令部壕」

太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍の司令部が置かれた地下ごうだ。崩落の危険性が高いため沖縄県が厳重に管理し、今は年に一度、管理する業者が入るだけだ。

今回NHKは沖縄県との共同研究として、特別に許可を得て撮影を行った。第5坑道と呼ばれる入り口の最も奥深くまでテレビカメラが入るのは初めてだ。

扉を開けて一歩足を踏み入れるとひんやりとしながらも重く湿った空気が首元を通り過ぎていった。
深黒の地下ごうの奥からは出口に向けて絶え間なく水が流れ続け小川のようになっている。首里の高台に降り注いだ雨が琉球石灰岩の地層を通り抜け、こんこんと湧き出ているのだ。

湿度はほぼ100%、気温は1年中23度で、中は常に沖縄の年間の平均気温と同じに保たれるのだという。

直線に伸びる通路を進むと右手に6畳ほどの小部屋が見えてきた。そこには旧日本軍の小銃や鉄製のヘルメット、無線機とみられる機械などが無造作に置かれている。

さらに入り口から100メートルほど進むと粘土のような湿った土の匂いが鼻をついた。島尻泥岩「クチャ」の地層に出たのだ。

それまでの固い琉球石灰岩の地層とは打って変わって地面は緩く、念のためにと履いてきた登山用のブーツが泥でくるぶしのあたりまで埋まる。一歩進むにも一苦労だ。

しばらく歩みを進めると地中に何か埋まっていることに気付いた。長さ60センチほどの木だ。当時、設けられたトロッコの枕木だという。水気の多い泥に埋まることで腐食が進みにくくなるのだと、管理する地質調査技士の男性が教えてくれた。
75年前の木材が今もその質感を変えず残っていることに驚く。

さらに50メートルほど進むと行き止まりに突き当たった。通路が階段状に上がる構造になっているところで土砂が崩れ落ち、先に進めなくなっていた。

昭和20年5月末、アメリカ軍に首里を包囲された旧日本軍は、司令部壕を放棄して沖縄本島南部に撤退する際、機密情報が知られないよう内部を爆破したとされている。この撤退の決断が、住民の犠牲が膨らんでいく悲劇の1か月の始まりとなった。

「さながら一大地下ホテル」首里城地下に造られた要塞

第32軍司令部壕は、アメリカ軍が上陸する4か月前の昭和19年12月から首里城の地下に突貫工事で作られた。全長は1キロ余りで、首里城の地下約30メートルを南北に縦断するように掘られている。

この場所が司令部に選ばれたのは2つの理由があるとされる。一つはアメリカ軍の1トン爆弾や艦砲射撃に耐えられる、琉球石灰岩の固い地層を備えていたこと、もう一つは高台に位置し周囲の戦況を把握できるその展望のよさからだ。

入り口はわかっているだけで5か所で、正面に当たる北側には3か所が設けられた。今は観光客が行き交う守礼門や歓会門から、わずか数十メートル北側の斜面に入り口があったが、いずれも埋もれて入ることはできない。

一方、裏口にあたる南側には2か所あり、今回入った入り口は第5坑道と呼ばれる唯一残る当時の入り口だ。

32軍で司令官、参謀長に次ぐナンバー3だった高級参謀の八原博通元大佐は、戦後書いた「沖縄決戦高級参謀の手記」で司令部壕について次のように記している。

「地下三十メートル、延長千数百メートルの大洞窟、多数の事務室や居室、かつての銀座の夜店もかくやと想う。二六時中煌々たる無数の電灯、千余人の将兵を収容して、さながら一大地下ホテルの観がある」

「中型以下の砲爆弾は、無数の豆を鉄板上に落としたように、ただぱんぱんと跳ね返るのみである。とにかく、洞窟内は危険絶無、絶対安全だ」

さらなる悲劇の始まりとなった首里

旧日本軍が沖縄決戦を見据えて、首里城の地下に司令部を構築している頃、戦況は日々悪化していた。アメリカ軍を中心とする連合国軍はサイパンや硫黄島など太平洋の島々を次々に制圧して日本の絶対国防圏を突破し、北上を続けていた。

これに対し旧日本軍は沖縄を防衛する32軍を設立し、約10万の兵を集め、アメリカ軍を迎え撃とうとしていた。
そして、昭和20年3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島への上陸を開始、4月1日には沖縄本島中部にも上陸し本格的な地上戦が始まった。

アメリカ軍は32軍の激しい抵抗を受けながらも5月半ばには司令部のある首里を包囲した。32軍は、このときすでに兵力の半数を失っていた。

司令部壕の中では、首里に戦力を集中し最後の戦いを挑むか、それとも本島南部に撤退し洞窟に隠れて持久戦を展開するか、幹部の間で意見が分かれていた。

この時、高級参謀の八原元大佐は
「本土決戦を少しでも有利ならしめるためには、あくまで抗戦を続けるべきである。ひと思いに死んでしまうといった野蛮人的感情論で、軍今後の作戦方針を決めるのは極力避くべきである」
と本島南部での持久戦を訴えた、と前述の手記に記している。

5月22日、司令官の牛島満中将は南部への撤退を決定。本島南端の糸満市摩文仁の洞窟に本拠地を移し持久戦を繰り広げることになったのだ。

しかしその決断は、住民を戦場に巻き込む結果になった。那覇や首里など都市部からは、軍を追うように多くの住民たちが南部へ避難。アメリカ軍の攻撃の巻き添えになったほか、日本兵に避難していた壕を追い出されて艦砲射撃の被害に遭うなど、多くの命が失われていった。

それは摩文仁の洞窟で牛島中将が自決し組織的な戦闘が終わったとされる6月23日ごろまで続いていった。

沖縄戦で犠牲になった県民は約12万人で、このうち軍人や軍属を除き、亡くなった時期や場所が分かっている住民は8万2000人。少なくともこの半数余りにあたる4万6000人が首里撤退後の1か月で亡くなったとされている。

首里城火災を機に“負の遺産”注目集まる

いま沖縄では、司令部壕の歴史的価値に注目が集まっている。住民被害が広がるきっかけとなった沖縄戦を象徴する重要な戦跡だとして、詳細な調査を行ったうえで保存、公開しようという機運が高まっているのだ。

きっかけは、去年起きた首里城の火災だった。琉球王国の象徴で県内屈指の観光地でもある首里城の再建計画が進められる中で、その足元に眠っている“負の遺産“である司令部壕が再び脚光を浴びるようになったのだ。

沖縄戦の体験者などはことし3月、公開を求める市民グループを結成し、SNSなどを通じて保存の重要性を訴えることにしている。

沖縄県の玉城知事も6月、専門家などからなる検討委員会を設置して保存や公開の在り方を検討していく考えを示した。

市民グループ 高山朝光副会長

高山副会長
「沖縄の象徴である首里城の再建とともに負の歴史である司令部壕を整備して公開したい。そのことで首里城を訪れた人が沖縄の歴史をより深く学ぶことができるはずだ」

学徒隊として司令部壕に 大田昌秀元知事の思い

第32軍司令部壕は過去に一度、公開に向けた本格的な議論が交わされたことがある。25年前の平成7年、当時の大田昌秀知事が戦後50年の事業として保存・公開事業を打ち出したのだ。

大田昌秀 元沖縄県知事

大田氏は公開に向け有識者などからなる検討委員会を発足、さらに教育・観光の場として整備していくための基本計画までまとめた。ところが3年後の平成10年、大田氏が県知事選挙で敗れ、以後計画は凍結されてしまった。

大田氏が公開にこだわったのは戦時中の体験にあった。大田氏は沖縄戦当時、沖縄師範学校の生徒で軍に動員された学徒隊の一員だった。情報宣伝部隊である「千早隊」に所属し32軍の方針などを住民などに伝える役割を担っていた。実際に司令部壕に出入りして軍の動向をつぶさに見ていたのだ。

11年前の平成21年、まだ駆け出しの記者だった私はこの司令部壕について聞こうとすでに政界を引退していた大田氏のもとを訪ねた。テレビカメラによるインタビュー取材はやんわりと断られたが、代わりに同僚と3人でホテルのバーで話を聞かせてくれることになった。その時、アルコール度数の高いカクテルをあおりながら語った彼のことばを今も鮮明に覚えている。

大田元知事
「僕は本当に生っ粋の軍国少年だった。兵隊や戦車が大好きで憧れていた。しかし、それは間違いだった」

司令部壕にいた将校に憧れ一緒に働くことを誇りに思っていたこと。しかし、その後次々と目の当たりにした南部での住民の悲劇。激しい後悔がバーのカウンターに座した彼の背中からあふれ出ていた。

当時すでに83歳、知事時代にはアメリカ軍基地の整理縮小を訴え政府と激しく対立した大田氏の原点を見た気がした。

進む風化 公開への課題

一方、今回の撮影では老朽化が進み、司令部壕の公開が一筋縄ではいきそうにない現状も見えてきた。

入り口から最も近い部屋、32軍の記録で炊事場とされている区画では落盤が相次ぎ、直径2メートルほどの大きな岩が横たわっている。天井には3メートルほどのヒビが一直線に伸びている。素人目でみてもいつ崩落してもおかしくない状態だ。

崩落を防ぐため、壕内の通路には支保工と呼ばれる鉄の柱とはりが189か所設置され、さらに支保工と壁や天井の隙間を発泡スチロールで埋めて崩落しないよう押さえつけている。

入り口から50メートルまでの間、琉球石灰岩の層の通路を歩くと何度も天井にヘルメットを打ちつける。私は11年前にも一度ここまで入っているが、その時にはなかった感覚だ。
聞くと琉球石灰岩のエリアでは雨水によって石灰岩のカルシウムが溶けて流れ出して地面に堆積し地面が少しずつ上がっているのだという。

確かに地面は段々畑のような形状になっていて、鍾乳洞でよく見られるリムストーンのようだ。人の手によって造られた地下ごうが75年の時を経て徐々に自然に還ろうとしているのだ。
爆破されて進めないその先には参謀室や作戦室があったとされるが、これまで誰も調査できていない。

沖縄国際大学 吉浜忍元教授

戦跡に詳しい沖縄国際大学元教授の吉浜忍さんは、公開に向けた動きを加速させる必要性を訴えている。

吉浜元教授
「沖縄戦の悲劇は南部に撤退したあとの1か月に集中して起きている。沖縄戦を知る戦跡としては最も価値のある場所で、地上には首里城、地下には司令部壕という両面を見ないと正しい歴史の理解にはつながらない」

今回、私は県と半年近く交渉を重ね、11年ぶり2度目の撮影について幸運にも許可を得た。これまで多くの体験者の話を聞かせてもらってきたが、多くの悲劇はこの首里城の地下から始まった。今回の取材が公開に向けた一助となり、沖縄戦について改めて考えてもらうきっかけとなればと強く思う。