戻ってきた「皇軍兵士」宛の手紙

戻ってきた「皇軍兵士」宛の手紙(2020年8月11日 ネットワーク報道部 成田大輔記者)

女学生が書いたきれいな手紙が、日本に戻ってきました。そこには楽しそうな家族のようすも描かれています。誰に届くかのか、わからないまま出された読み人知らずの手紙のようでした。やがてそうした手紙は、全く出されなくなりました。出せる状況ではなくなったのです。

オーストラリアで見つかった手紙

戻ってきた手紙は、和紙に達筆な筆文字で書かれていました。内容はお餅が配られたことや、明治神宮に参拝したことなどお正月のようすです。色鮮やかに描かれた、わらの靴を履いた子どもの絵も添えられています。

書き出しを見ると「皇軍乃皆々様」となっていました。

手紙を持っていたのは、オーストラリアに住むマーガレット・スティーブンソンさんです。2017年に亡くなった父親の遺品の中から見つけました。

スティーブンソンさんの父親

父親のフランクさんはイギリス陸軍の曹長で、太平洋戦争中にマレー半島などに従軍していました。

手紙は日本から、海外の前線で戦う日本兵に宛てて出されたとみられます。それがどうやってフランクさんの手に渡ったかは分かりません。

フランクさんは戦地から持ち帰ったこの手紙を、アルバムに入れて大切に保管していたそうです。

スティーブンソンさんも子どものころに時々手紙を見せてもらっていて、「とてもキレイな絵だなぁ」とながめていたことを覚えています。遺品の中からその手紙を見つけたとき、日本に届けたいと強く感じました。

マーガレット・スティーブンソンさん

「父の死後、イギリスから手紙を持ち帰って同僚に翻訳してもらい、引き取ってもらえそうな博物館を探してもらいました。私はいつかこの絵が描かれた国に戻り、そしてこの絵を描いた方の手元に再び届いたらいいなと、いつも思っていました」(スティーブンソンさんのメールより)

かかってきた電話

差出人には東京・渋谷区にある関東高等女学校(今の関東国際高校)の生徒の名前が書かれていて、渋谷の博物館へと託されました。

受け取った白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の松井圭太学芸員は、庶民の生活が分かる貴重な資料だと話します。

松井圭太 学芸員

松井圭太さん
「奇跡じゃないかと思うくらいよい状態で残っていて驚きました。絵からもふるさとと感じてもらいたいという思いが伝わってきます」

当時は戦地にいる部隊などに向けて、日用品やお守りなどを入れた「慰問袋」と呼ばれるものを送っていました。

松井さんはその中に入っていたものではないかと考えました。しかし実際にどのような状況で書かれたのかは分かりません。

6月、手紙が博物館に展示されることがニュースで報道され、差出人を探していると伝えられると、博物館に1本の電話がかかってきました。

「この手紙は私たちが書いたものです」

電話は95歳の渋谷寿栄さんという方からでした。渋谷さんも関東高等女学校に通っていました。「校長の指示で、授業の一環として全校生徒が兵隊に向けて手紙を書いていました」渋谷さんはそう教えてくれました。

手紙は破れないように美濃紙とよばれる丈夫な和紙を使ったこと、戦地で話の種になるような日常の何気ない話題を書いていたということでした。

手紙を持って明治神宮でお参りしたあとで、学芸員の考えたとおり手縫いの慰問袋に入れたそうです。

そして自分で買ったキャラメルなどのお菓子を添えて、誰に届くかわからないまま送っていました。

渋谷寿栄さん

渋谷寿栄さん
「ニュースで手紙が戻ってきたことを知って、とても懐かしく思いました。当時こうした手紙を出すのが当たり前でした。みんな一生懸命、書いていました。今は新型コロナウイルス対策で外出を控えていますが、いつか手紙を見たいと思っています」

この女子生徒が書いたのでは

手紙がいつ書かれたのかも分かってきました。手がかりになったのは手紙の本文です。

「新聞等は兵隊さん方が御餅をついていらっしゃる写真が出ております」

「門松も廃止され、そのお金を海軍省へ献金いたします為」

左:昭和18年1月7日 右:1月17日読売新聞

古い新聞記事を調べると、昭和18年1月に同じ内容の記事がありました。また手紙の差出人は「五年竹組」の女子生徒となっていました。

関東高等女学校の卒業名簿を調べたところ、。昭和18年3月に卒業した5年生に、同じ名前がありました。

手紙は昭和18年1月にこの女子生徒が書いたのではないか。

生徒の名前は「高橋よね子」とありましたが、高橋さんを見つけることはできませんでした。

手紙を書くこともできなくなった

高橋さんが出したであろう、読み人知らずの手紙。こうした手紙を書くことも、徐々にできなくなっていたこともわかりました。

教えてくれたのは関東高等女学校で高橋さんの3年後輩になる、91歳の増島アキ子さんです。

増島アキ子さん

昭和16年に入学した増島さんは、他の生徒と一緒に月に3通ほど、兵士にあてた手紙を書いていました。

しかし徐々に戦況が悪化します。3年生になった昭和18年の夏からは、兵器を作る軍需工場で働くようになりました。「学徒動員」です。もはや手紙を書く余裕などなくなっていたのです。

先生も出征していった

翌年の昭和19年9月には、担任の藤本要先生が出征することになりました。壮行会を開いたことも覚えています。

昭和19年 出征する担任の先生と撮影

藤本先生を真ん中にして写した写真です。笑顔で送り出そうとしているものの、みんなの表情の中にはなにか真剣さが感じられました。戦争が身近に迫っていたこともうかがえました。

空襲で割れないように紙をのりで十字に貼って補強している窓ガラス。足を見ると物資が不足していたため、女学生でも全員がげた履きです。

増島アキ子さん
「ハチマキ姿ですよね。ハチマキには死んだときに身元が分かるように、住所と名前を書いていました。出征した藤本先生にはまだ幼い子どもがいました。その先生が戦地から戻ってくることはありませんでした」

当時の増島さん

増島アキ子さん
「女学生がはちまきを巻いてげたを履くなんて今では考えられない。でも当時はこれが当たり前でした。先生が戦死したと聞いても、涙も出ませんでした。国のために亡くなるのは、当然のような時代です。今とは全然違っていました」

命を落として当たり前、だった

空襲も激しくなっていきました。昭和20年3月10日未明、10万人が亡くなったとも言われる東京大空襲に遭います。

増島さんたちが通っていた軍需工場、錦糸町の精工舎も全焼し、空襲の翌朝に工場へ向かった道すがら、多くの遺体を目の当たりにしました。負傷した人もたくさんいて手当てをしたそうです。

2か月後には、渋谷や原宿、赤坂などが焼き尽くされた山の手空襲に遭います。関東高等女学校の校舎も全焼してしまいました。

人の命も、母校も奪ってしまうのが戦争でした。

増島アキ子さん
「死というものに対して鈍感になっていたというか、みんな命を落として当たり前と教育されていました。手紙が戻ってきたのはありがたいことですが、この手紙は絶対に戦争はしてはいけないと伝える教訓のようなものだと思います。母校の後輩たちには、それをしっかり学んでほしいです」

人と人が殺し合っていた時代に出され、平和な時代に戻って来た手紙。その手紙が呼び起こしたのはつらい記憶でした。

長い年月を経て戻ってきた手紙。かつての時代に後戻りしてはならないというたくさんの人の思いが、本当に忘れてはならない過去があることを改めて伝えるために戻ってきたのではないか。取材を通じてそのように感じました。