自分の街の戦跡知っていますか

君たちは自分の街の戦跡知っている?(2018年8月9日 高松局 鈴木博子記者)

香川県観音寺市では、3年前の戦後70年を機に、地元の戦争の記録を調べ始めた高校教諭がいます。

戦争を知らない世代の教諭がさらに若い教え子たちに、地元に残る戦争の跡を伝えようと取り組む姿を取材しました。

ことし発刊された本

ことし3月、観音寺市が発刊した「戦争の記憶」という本です。

市内の戦争の経験者などの話を載せています。

この本に現在の観音寺市にあった海軍の飛行場について記した部分があります。

自分の地域を調べようと思った

飛行場の部分を執筆した細川健一さん(43)は、観音寺総合高校の教諭で、地理・歴史を教えています。

細川さんは3年前の戦後70年を機に、高校の近くの柞田地区などにあった、海軍の「観音寺飛行場」について調べ始めました。

細川健一さん:
「戦争の悲惨さとか平和の尊さについて考えるようなことが何かできないかということで、自分でも調べてみようと思ったのがきっかけです」

住民を立ち退かせて未完成の飛行場

「観音寺飛行場」は、終戦の前年の昭和19年に建設が始まりました。広さ約110ヘクタールで、地元の約350戸が立ち退きを余儀なくされました。

滑走路は工事中から特攻隊の練習機、通称「赤トンボ」の練習に使われたということです。

滑走路の工事は終戦の日の昭和20年8月15日の午前中まで続けられましたが、結局、完成しませんでした。

細川健一さん:
「完成しないまま戦争が終わったわけです。そういう風に考えたら本当に戦争というものがいかに無駄というか、住民たちにも苦労や苦しみを強いるものであったかと思います」

身近な場所にあった戦跡

みずから調べた地元の戦争に関する歴史を若い世代に伝えようと、細川さんは3年前から教え子の生徒たちと一緒に、「観音寺飛行場」の跡などを巡っています。

生徒たちと向かった地域にある、ため池の堤には、滑走路に使われていた多数のコンクリートの破片が埋め込まれていました。

細川さんは、「戦後、滑走路が邪魔だということで、地域の人たちが全部取り除いてコンクリートを再利用しているんです」と生徒たちに説明しました。

また飛行場の跡がそのまま残っている住宅にも行きました。

この家に住む男性は当時、飛行場の建設に伴って立ち退きを余儀なくされましたが、戦後、戻ってきてからは滑走路だったコンクリートの上に家を建てて暮らしています。

住宅の男性:
「立ち退いた人の90%以上が帰ってきたが、坂本地区の人は移転してから帰ってきていません」

戦争が一気に身近に

地元にあった戦争の跡は、生徒たちにとっては新たな発見でした。

女子生徒:
「一気に戦争が身近なものになったと思いました。兄弟とか従兄弟たちに、こういうところがあるんだよ、というのを教えてあげたいなと思いました」

男子生徒:
「きょうだけではわからなかったところもあるので、戦争のことについて、もっと調べたいと思いました」

細川さんは観音寺市内に残る戦争の跡、戦跡の調査や生徒との戦跡巡りを、今後もできるかぎり続けていきたいとしています。

細川健一さん:
「誰かが語り継いでいかないと忘れ去られていってしまうので、参加した生徒たちの中から語り継いでいく役割を担えるような生徒が、1人でも2人でも出てくればいいかなと思います」

戦争を直接体験した人が減っていく中、若い世代へ地元の戦争を伝えようという取り組みが続いています。