戦後75年 母と信じた人は別人だった

戦後75年 母と信じた人は別人だった(2020年7月30日 ネットワーク報道部 大石理恵記者)

戦争孤児は、どこまで翻弄され続けるのか。親の手がかりを求める旅を70歳をすぎてから始めた女性がいる。おととし母の名前を知った時には、その存在を初めて実感できて心が震えた。

さらに詳しく知りたいと、個人情報の壁を乗り越え手にした行政の記録には、母だと信じていた人は別人という事実が記されていた。戦後75年の夏に立ちすくむ戦争孤児。しかし、専門家は指摘する。

「戦争孤児の人生の空白を埋める責任は国にある」

戦争孤児 いまだ親を知らない

谷平仄子さんと夫の昌彦さん

旅の主人公は、北海道江別市に暮らす谷平仄子(ほのこ)さん(75)。

幼い頃、戦争孤児を保護する埼玉県の施設で過ごし、5歳で里親に引き取られて北海道で育った。実の親の記憶は、ない。戸籍の父母の欄も、空欄のままだ。

「私はどこの誰なのか。わからないままでは死ねない」

70歳をすぎてからその思いにとらわれるようになり、2018年11月から親の手がかりを探し始めた。

実母の名前は「菅谷みさを」

仄子さんが一時過ごした児童養護施設

最初に訪れたのは、里親に引き取られる前に過ごした埼玉県加須市の児童養護施設だ。そこには当時の児童名簿が残っていた。仄子さんの名前の横には「菅谷みさを(実母)」と書かれていたのだ。

自分に母親がいるという当たり前のことを初めて実感して、心が震えた。その時の心境を仄子さんは、こう語った。

仄子さん
「菅谷みさをさんが、私の母なんですね。これまで知りたい知りたいと思っていたんですが、会いたいという気持ちに変わりました。まるで幼い子どもに戻ってしまったような気持ちです」

仄子さんは、名前と一緒に記載されていた東京世田谷区の古い住所をたずね歩いた。しかし、母親を知っている人には会えなかった。区役所にも足を運んだが、情報は得られなかった。

自分の生い立ちが黒塗りに

ただ、仄子さんはもう1つ大きな手がかりを手に入れていた。地元の北海道庁に残された、里親に引き取られた経緯などを記した記録だ。

情報公開の制度を使い、開示請求したところ、2018年12月に次のような文書を手に入れることができた。

(文書の一部を抜粋)
戦災の折病身の母が乳児を抱えて避難する事が出来ずこれを見た■■■■という婦人が預り安全な場所に避難したがそれ以来母の消息不明となったがその場の状況から焼死したと思われる
■■■■は夫復員後、その様子を話したが納得せず問題となり■■■■と相談の結果埼玉県愛泉寮に入所せしめたもの
戸籍は新戸籍を新しく作製された

昭和28年7月30日旭川児童相談所長

文書には、病気だった母親が仄子さんを抱えて空襲から避難できず、焼死したとみられること。さらには、母子の様子を見た別の女性が仄子さんを預かり、施設に預けるまでの3年近く育てたとみられることが書かれていた。

しかし、肝心の「育ての親」の名前は黒塗りだった。個人情報保護を理由に道庁が開示しなかったのだ。

この世に残された数少ない自身の生い立ちの記録すら知ることができないもどかしさ。仄子さんは、札幌の広田拓郎弁護士にいきさつを相談した。

弁護士“情報は開示されるべき”

広田弁護士(左)に相談する谷平夫妻

「育ててくれた女性は家族同然で、仄子さんが知って然るべきだ」

広田弁護士は、すぐに支援を約束してくれた。

道庁に黒塗り部分の非開示を不服として審査請求を行い、反論書で次のように訴えたのだ。

・育ててくれた女性は、いわば家族であることから氏名を開示することは当然で、開示されることによって、侵される利益はない。
・自分がどのような親から生まれ、どのような親に育てられた結果、現在に至るのかを認識することは個人のアイデンティティーの根幹をなすもので、憲法第13条の人格権の基礎となるべきものだ。

審査会で思いの丈を

黒塗りの文書を手にしてから半年以上たった2019年9月、仄子さんは道庁の一室にいた。審査会でみずから意見を述べるためだ。

審査会の見取り図(仄子さん作成)

部屋の中央に立った仄子さんは、左側に座る3人の審査委員に対して、時には涙を浮かべ訴えた。

(仄子さん)
「出自についての肝心なところが黒塗りで分かりません。戦争孤児であるというだけで何も知らずに生きてきました。それが今、手元にある書類でわかるというところまで来ているのに、残念でなりません」

(審査委員)
「実母のことがわかったのはいつか?」
「実母の名前は?」
「仄子という名前はだれがつけたのか?」

審査委員からはこうした質問が淡々と出されただけだったと言う。ここが勝負と臨んだ仄子さんは、「体の力が抜けてしまった」と語った。

今こそ孤児の救済を

もう1人の支援者も手をさしのべた。孤児の戦後史に詳しい立教大学名誉教授の浅井春夫さんだ。

戦争で親を失ったり、生き別れになったりした戦争孤児は12万人にのぼり、今、人生の晩年を迎えている。「体験者の生の声を聞き取ることができるぎりぎりの時期になっている」として、戦争孤児だった人の調査や支援に力を注いできた浅井さんは、仄子さんが国会議員に窮状を訴える機会を設けた。

相手は、民間の戦災被害者の救済を目指す超党派の議員連盟の会長、河村建夫さん。この議員連盟は2017年、空襲で身体障害が残った人たちに一時金として50万円を支給することを柱とする法律の素案をまとめている。この中では、空襲で保護者を失った人たちの被害などについての実態調査を国に求めることも盛り込んでいる。

2019年11月に仄子さんは、河村さんと地元の和田義明議員に面会し、これまでの経緯や思いを訴えた。

審査会全面開示

年が明けて2020年1月、審査会の結論が届いた。結果は「全面開示」だった。通知書には、74年も前のことで情報を開示しても、その人の利益を侵すものではなく、いったん黒塗りにされたすべてを開示することが妥当だと記されていた。

仄子さん
「開示はないと考えてばかりいたので、うれしくてうれしくて涙が止まりませんでした。私を戦時中育ててくれた方が分かる。目に見えないことが目に見えるようになる、奇跡がつながっている気がします」

ただ、憲法第13条に基づき戦争孤児の知る権利を求めた部分については、判断されなかったと弁護士は指摘する。

広田弁護士
「谷平さんの出自を知る権利について判断がなかったことは、少々もの足りないと感じます。ただ、戦後70年以上という時の経過を理由に開示を判断した部分は、他の戦争孤児の方々がルーツを知りたいという請求をする場合の参考になるのではないかと思います」

黒塗りの封印がとけた先には…

仄子さんのもとに北海道庁から改めて文書が届いたのは、新型コロナウイルスで緊急事態宣言が出された後の4月中旬だった。

実母から仄子さんを預かって育ててくれた人の名前がわかれば、もっと詳しい話が聞けるかもしれない。そう思ってすかしたり消しゴムで消してみたりして、どうにか見えないものかと思っていたあの黒塗りは、なくなっていた。

しかし、そこに書かれていた文字を見て、仄子さんは立ちすくむような衝撃を受けた。

「管原みさを」

仄子さんが親の手がかりを探す旅に出て初めて訪れた児童施設の名簿に、実母と記載されていた「菅谷みさを」とよく似た名前で、おそらく同一人物と思われたからだ。

1年半もの間、仄子さんが実母だと信じていた「菅谷みさを」は、自分を戦災から救い出し埼玉の施設に預けてくれた人だったのだ。

この年になってようやく実感できた実母の存在が再び消え去ってしまう。仄子さんにとっては、受け入れることができない事実だった。

母は名前すら残せなかった

振り出しに戻った仄子さんは、書類を枕元に置いたまま数日間伏せっていたという。

さらに調べようにも新型コロナウイルスの影響で身動きがとれないまま時が過ぎた。6月になって仄子さんから、みずからの気持ちと折り合いをつけるようなメールが、記者に届いた。

仄子さんからのメール
「戦災孤児として自分本意で親探しをしてきたわけですが、死んでしまった実母が残したものは、今生きている私だけで他には何も残っていない、名前さえも残さなかった、残せなかったのです。探しても分からないはずでした。それまでの実母の人生も、家族も、命までも一瞬にして奪ってしまい、名前さえも残せていないため戦災者の数にもいれて貰えず、今、実母があわれすぎて泣けてしかたありません。私を人(菅谷みさをさん)に託していなければ一緒に焼死していたのですが、実母の一瞬の、機転でこの歳まで生きながらえたことが、実母が生きていた証しなのだと自分に言い聞かせています。この5月で、75歳後期高齢者になりますが実母に感謝しながら、実母の分も戦争が残酷で悲惨なことだと言い続け、もう少し生きていきたいと思っています」

まだ、終わっていない

でも、全面開示された文書からは、新たな手がかりも明らかになった。

「(育ての親であるみさをさんは)田園調布の牧師、上松氏と相談の上、愛泉寮に預けた」と記載されていたのだ。

この情報をもとに、新たな事実をたぐり寄せることはできないだろうか。でもその地道な作業は、70年以上翻弄され続けてきた戦争孤児だけに任されるべきなのか。

戦争孤児の調査や支援を続けてきた立教大学の浅井名誉教授は、次のように指摘する。

立教大学浅井春夫名誉教授

浅井名誉教授
「人生はじめの時期が空白のままでは、人生史は完結しない。戦争が人生の空白をつくったのであるから、空白を埋める責任は国にある。現在、資料的にルーツを探ることができるのであれば、ぎりぎりの努力をすることが戦争に対する責任の取り方ではないか」

そして、この記事もその一助となることを願ってやまない。

「田園調布の牧師、上松氏をどなたか知りませんか?」