1通の遺書から浮かび上がってきたものは…

1通の遺書から
浮かび上がってきたものは…(2020年4月22日 水戸局 齋藤怜記者)

太平洋戦争の末期、特攻隊員だった男性は、ふるさと茨城から1500キロ離れた鹿児島県の海上で、21歳の若さで戦死しました。男性が送った遺書や写真を家族は長年保管してきましたが、この春、手放すことを決断しました。その背景には、戦後75年という年月の経過だけでない大きな理由がありました。

21歳の戦死
紙切れ1枚の遺書

鈴木典信さん遺影

現在の茨城県常陸太田市出身の、鈴木典信さんです。

つくば市にあった谷田部海軍航空隊の隊員だった典信さんは、戦局が厳しくなった戦争末期に、鹿児島県鹿屋市にあった鹿屋航空基地に移動。昭和20年4月14日、神風特別攻撃隊第一昭和隊の隊長として出撃し、ふるさとから1500キロ離れた徳之島の沖合で戦死しました。21歳でした。

鈴木典信さんの遺書

「たらちねの 御親の教そのまゝに 征きて御国の盾たらむ」

典信さんがふるさとの両親に送った遺書です。お国のための盾となりますという出撃時の思いが、ノートを破いた紙切れ1枚に記されていました。

おいの鈴木洋一さん

この遺書を受け継いできたのは、典信さんのおいにあたる、鈴木洋一さん(66)です。

鈴木洋一さん
「戦局が悪化した状況の中で、日本の国を守るんだ、自分が盾になるんだという思いが、ひしひしと伝わってきます。筆跡からは几帳面な人だったんだなということや、遺書を書くための紙もこのようなノートの端切れしかなかったんだということがうかがえます。遺書の実物だからこそ伝わることがあると思います。これは『家の宝』です」

台風で浸水 遺書も被害に

しかし、常陸太田市の鈴木さんの自宅は、2019年の台風19号で2メートル近い高さまで浸水しました。保管してきた典信さんの遺書や写真も、泥につかってしまいました。

水害で破損した遺書や写真

鈴木さんは地元のボランティアに依頼し、遺書の汚れを取り除いたり、乾かしたりして修復しました。

そして、ことし2月。鈴木さんは、典信さんが最後の時を過ごした鹿児島県の鹿屋航空基地にある特攻隊に関する史料館に、遺書や写真を寄贈することを決めました。

長年守り続け、泥水につかっても修復して大切にしてきたのになぜ。

その問いに鈴木さんはこう答えました。

鈴木洋一さん
「自宅の2階で保管したとしても、同じ規模の水害が起これば浸水するおそれは拭えない。自然災害が頻発する中で、今後も自宅で保管するのは難しいと感じます。鈴木典信という人を知る者もだんだんいなくなってきてることも考えると、個人で保管するのには限度があるのかなと思います。歴史の1ページとして、これは史料館などで保管してもらった方がいいのではないでしょうか」

東日本大震災でも震度6弱の揺れを経験した鈴木さん。相次いで大きな災害が起こる中、遺書を個人で保管し続けることに難しさを感じていました。

さらに、戦後75年が経ち、伯父を知らない子や孫の世代に遺書を託していくことに限界を感じたと言います。

伯父の思いに近づきたい

鹿屋市では毎年、多くの特攻隊員が飛び立った4月に戦没者慰霊塔に献花台が設置され、追悼が行われています。鈴木さんはこのタイミングに合わせて史料館を訪ね、遺書などを寄贈することにしました。

そして、典信さんの当時の思いに近づきたいと、典信さんが残した手紙や写真をもとに、その足跡をたどることにしました。

出撃前にタルトを手にする典信さん

出撃前、最後に撮影された典信さんの写真です。

手に持っているのは「タルト」と呼ばれていた和菓子。カステラのような生地であんをはさんだもので、当時は貴重な砂糖を使っていました。

再現された「タルト」

特攻隊員は最後の食事としてタルトを受け取って基地を飛び立ち、操縦桿を握りながら食べたとされています。

鈴木さんはこのタルトを作っていた和菓子店に向かいました。

店のおかみの北村馨さんは、特攻隊員のことを忘れてはならないと、3年前にこのタルトを再び作り始めました。

当時はまだ5歳でしたが、店に遊びに来ていた特攻隊員たちの姿を鮮明に覚えていると話してくれました。

北村馨さん

和菓子店おかみ 北村馨さん
「隊員さんたちは身につけていたマフラーを機体の窓から出すので、それが僕の目印ですって言っていました。基地を飛び立つと3回ほど旋回してから飛んでいったので、私たちはみんな、下から手を振って見送っていましたよ。もう帰ってはこない隊員さんたちのことを忘れてはならないという思いで、タルトを作っています」

鈴木洋一さん

鈴木さんも当時の話を聞きながら、タルトを味わいました。

鈴木洋一さん
「当時はやっぱり、みんな最後に甘い物が食べたかったのでしょうね。敵艦に突入することを控えた操縦席の中で、この最後の食事が、のどを通ったのかな。この甘さも涙でしょっぱかったんじゃないかとか、いろいろ考えさせられます」

鈴木さんは、典信さんが遺書を書いたであろう場所も訪れました。鹿屋で過ごしたわずか1週間、他の隊員たちと共に寝泊まりした宿舎の跡地です。

現在は、国旗を掲揚していた台座が残り、当時の隊員たちの暮らしを写真で紹介するパネルが掲示されていました。鈴木さんは、死と向き合った21歳の伯父の気持ちを改めて考えました。

鈴木洋一さん
「たばこを吸ったり、おしゃべりしたりして、若者に戻ったような、束の間の時間を少し楽しんだんでしょうね。いつも死ぬことを考えているばかりではなくて、逆に生きるということも考えていたのかもしれませんね」

遺書は手放したけれど

翌日、鈴木さんは鹿屋航空基地の史料館を訪れ、典信さんの遺書などを寄贈しました。いつまでも大勢の人に見てもらいたいという鈴木さんの願いに対し、史料館からは、当時を物語る貴重な内容で展示を検討したいと回答があったということでした。

鈴木洋一さん
「ここならしっかり伯父の遺書や写真を管理してくれる。盾となって日本の国を守ろうとした仲間たちと一緒に保管してもらうことは、天国にいる伯父にとってもいいことだろうと思います」

最後に鈴木さんが向かったのは、典信さんが眠る徳之島の海でした。穏やかに透き通った海に向かい、花を手向け手を合わせた鈴木さん。

典信さんの遺書は手放しましたが、戦争を繰り返してはならないとこれからも後世に伝えていくことを誓いました。

徳之島の海に向かう

鈴木洋一さん
「75年前にはこのきれいな海の上をゼロ戦が飛び、水しぶきが上がっていたなんて、とても想像できないと思います。遺書は寄贈しましたが、伯父がつづった思いや伯父がここで戦死した事実は、子や孫たちにしっかりと伝えていきます」

戦争を伝える遺品 どう残していくか

取材を終えた約2週間後、鈴木さんから連絡がありました。典信さんと同期の特攻隊員で、出撃を待つ中で終戦を迎えた男性が、94歳で亡くなったというものでした。

戦後75年という年月がたって戦争を知る人が少なくなり、ただでさえ戦争を物語る品々を受け継いでいくのは難しくなってきています。そういった品々を、さらに自然災害からどう守っていくのか。新たな課題が生じています。