空襲から1000人を救った列車の決断

空襲から1000人を救った列車の決断(2018年8月16日 名古屋局 林秀雄記者)

戦後70年以上たって明らかになったことがあります。戦争末期の昭和20年6月、愛知県豊橋市で600人以上が犠牲者となった「豊橋空襲」については、いつ空襲が始まったかが実はわからず、議論が続いていました。

しかしこのほど、当時の国鉄職員から新たな証言が寄せられ、さらに1000人もの乗客の命がわずか数分間の決断にかかっていたことが明らかになりました。

空襲のねらいは「労働力の供給遮断」

昭和20年6月、アメリカ軍の爆撃機136機が愛知県豊橋市の市街地の上空に飛来し、約1万5千発もの焼い弾が投下されました。

市街地は焼き尽くされ、624人が犠牲となりました。

豊橋市中央図書館で歴史研究に携わる専門員の岩瀬彰利さんは、豊橋空襲についてアメリカ軍の公式記録などを元に研究を行っています。

市街地を爆撃したアメリカ軍のねらいについて岩瀬さんは、隣の豊川にできた大規模な武器工場に、豊橋から向かう労働力の供給を遮断するねらいがあったのではと指摘しています。

岩瀬彰利専門員:
「米軍の報告書をみていきますと、昭和14年に豊川の海軍工しょうが出来て、それが非常に脅威だったと。工場に動員していた人々の供給先を断つとか、戦意を喪失させる、という目的でねらわれたといわれています」

豊橋空襲めぐる「2つの説」

昭和55年ごろに公開されたこのアメリカ軍の公式記録が、波紋を巻き起こしました。

豊橋空襲が始まった時刻が「20日午前0時58分」と記されていたからです。
それまでの豊橋市の戦災の記録誌には、空襲開始は「19日午後11時43分頃」と記されていました。

日付が異なる2つの説があったことで、長らく追悼の日などをめぐって、論争が続いてきました。空襲はいつ始まったのか?

突き止めたいと考えていた岩瀬さんの元に、去年、ある情報が寄せられました。ちょうどその時刻に豊橋駅を通過した、列車があるというのです。

元国鉄職員の新証言

情報を寄せたのは、元国鉄職員の川端新二さん(89)です。

当時、川端さんは名古屋を拠点に東海道線を運行する列車の機関車で、石炭をくべる仕事をしていました。

機関士とともに乗務し、決められた時間どおりに運行することが日課でした。

昭和20年6月19日の晩、川端さんはふだんと変わらず、大阪発東京行きの夜行列車に、名古屋から乗り込みました。
列車は日付が変わった6月20日午前0時2分、定刻どおりに豊橋駅に到着しました。裏付ける時刻表も残されています。

列車は豊橋駅に3分間停車し、川端さんは機関車の釜に溜まった灰を捨ててから出発する予定でした。

規定破って出発早めた列車

ところが列車は、わずか1分ほどで豊橋駅を後にしていました。
「旅客列車は絶対に定刻より早く出発させない」という、当時の国鉄の規定を破ってのことでした。

川端新二さん:
「空襲が始まると、すぐに『出て行け、出てってくれ』と言って駅の職員が飛んできて、機関士が『行くがいいか?、行くぞ!』と言ったので、『いいです、行きましょう』と言って、発車していったわけです。無我夢中で石炭を放りこんで、ちょっと手を休めて後ろを見たら真っ赤だったんですね」

証言を聞いた岩瀬さんは「0時2分に豊橋駅に着いて、そのあとすぐ列車を発車させていったということからすると、爆撃は19日にはあったということ」と話しています。

生死を分けた数分間

また川端さんの証言からは、約1000人の乗客がいた列車が、ほんの数分の差であやうく難を逃れていたことも分かりました。

川端新二さん:
「僕らは駅長の指示に従って豊橋駅を所定時間より早く出た。僕は機関士の命令に従って、一生懸命釜を焚いて蒸気を作っていた、ただそれだけのことです。定刻の時間までいたら、やられておりました」

いま語り継ぐ「命守った列車」

生死を分けた数分間の体験を、川端さんは今、語り継ごうとしています。

自らを含む1000人の命が助かった一方で、多くの犠牲者が出た豊橋空襲。体験したからこそ分かる命の尊さを、多くの人に知ってもらいたいと考えたからです。

川端さんは、ことし7月に豊橋市中央図書館で講演しました。

川端新二さん:
「私がしみじみと考えることは、あの戦争が、もう三月(みつき)早く終わっていたらということです。その三月の間に豊橋も空襲でやられ、広島、長崎に原爆が投下され、百何十万人も余分に亡くなったわけです」

川端さんは「当時は命が安かったですね。絶対に戦争なんかあってはならないし、被害者にも、加害者にもなってはいけない、絶対、平和が大事ですね」とも話していました。