レイテ島捕虜収容所「曙光」が廃刊

レイテ島捕虜収容所「曙光」が廃刊(2016年8月12日 名古屋局 早川きよカメラマン)

戦争の記憶を引き継いできた営みが、また一つ姿を消します。終戦直後にフィリピンの日本兵の捕虜収容所で壁新聞として始まり現在まで発行されてきた新聞が、この夏、歴史に幕をおろすことになりました。

激戦地の壁新聞

太平洋戦争末期、最も過酷な戦場といわれたフィリピン。100万人を超えるフィリピン人が犠牲になったとされ、日本の将兵、約50万人が亡くなりました。

戦闘のあと捕虜となった日本兵を集める収容所がつくられました。フィリピン・レイテ島の捕虜収容所には、一時5万人が収容されたといわれています。

捕虜の間では「いつ帰れるのか」「日本はどうなっているのか」不安が広がりました。そこで捕虜の有志が少しでも情報を伝えようと、新聞の発行を始めたのです。

創刊は昭和21年1月6日。夜明けの光を意味する「曙光新聞」と名付けられました。アメリカ軍の許可を得て週に1回程のペースで壁に張り出されました。

収容所で人々の心を照らす

当時新聞を読んだ旧日本海軍の大尉、深尾秀文さん(92)は、毎号、発行を待ちわびていたと言います。

深尾秀文さん:
「食い入るようにして読んだことは覚えています。文字に飢えているというか、ニュースに飢えているという感じだったですから」

新聞は復興への動きについても伝え、敗戦にうちひしがれた捕虜を励ましました。

深尾秀文さん:
「文字通り光であり、自分の中で前向きの考え方、生きる意欲と言いますか、内地に帰ってまたやるんだという意欲がわいていって、精神的に立ち直っていったと思うんですがね」

曙光新聞は捕虜が帰国したことを受けて昭和21年11月、36号を最後に終刊となりました。そして戦後30年の昭和50年に再び発行が始まります。

元捕虜たちの情報交換の場となった新聞は、一方で遺族からは戦死した夫や父の「最期を知りたい」という声が、数多く寄せられるようになりました。

父の最期を知りたい

8年前から曙光新聞の編集長をつとめる遺族のひとり、牧野弘道さんは、情報を求める遺族の記事を積極的に掲載してきました。

牧野弘道さん:
「親の死に目っていうか、どういうふうに亡くなったかを知りたいのは、遺族の共通した思いですよ」

曙光新聞の記事をきっかけに、父親が亡くなった戦場の様子を知った人がいます。阿部孝雄さんの父の利雄さんは、フィリピンのレイテ島で戦死しましたが遺骨もなく、詳しい状況も分かっていませんでした。

阿部さんは母親も戦時中に亡くして孤児となり、幼い妹と2人で親戚の家を転々とするなど、苦しい戦後の時代を生き抜いてきました。

阿部孝雄さん:
「一番悔しかったのはね、明日食べる米がない。自分は我慢するんだけれども、妹に食わせなきゃなんない」

がむしゃらに働いて企業の重役までつとめた阿部さんは、仕事をやめてから父の最期を知りたいと思うようになり、曙光新聞に投稿しました。

阿部孝雄さん:
「くもの糸のようにね、そんな思いですよ。何かとにかく1つでも情報がほしい。自分たちの父親がどういう戦いをやって死んでいったか」

記事をきっかけに父と同じレイテ島で戦っていたという人と知り合うことができました。旧日本陸軍の中尉だった松本實さんは、目の前で、多くの戦友を失いました。

松本實さん:
「私の右にいた兵隊が腹をやられまして、左にいた下士官はももをやられて、もうみんな誰にも会わず1人でみんな亡くなっているわけです」

これまで慰霊のために、何度も現地を訪れた松本さんは、島のある場所で、阿部さんの父親が所属していた部隊の痕跡を見つけていました。

松本さん:
「小さな盆地なんです。それでそこにですね、遺骨と、それから小銃がほとんど新しい小銃で、われわれの38(式)と違う小銃の残骸がありましたもんですから、それでここが星(阿部さんの父の部隊)の終焉の地ではないかなと判断をしたわけです」

阿部さん:
「そういうのが出てくるとね、やっぱりおやじの部隊ここで戦ったんだなっていうねそれがわかる」

ことし1月、阿部さんは松本さんとともにレイテ島を訪れ、父の部隊の痕跡が残る場所で冥福を祈りました。

阿部さん:
「ここで親父の部隊の人たちが戦ったんだなぁと。万感の思いを込めてね、ありがとう」

終戦直後、捕虜の心を照らし、戦後は遺族の悲しみを癒やした曙光新聞。戦後71年、遺族の高齢化により、今月号で幕をおろすことになりました。

阿部さん:
「これ(曙光新聞)にはね、本当にレイテで戦った、フィリピンで戦った人たち将兵の思い、それから遺族の思いが込められた文書ですね」

曙光新聞を購読している人の多くは遺族、つまり幼いころに戦争で父親を失った方々です。曙光新聞は同じ境遇の遺族がつながり、支え合う場になってきました。こうした会は、全国各地にありますが、高齢化で活動できなくなる会も多く、どう引き継いでいくかが課題になっています。