ある被爆者団体の解散 それでも伝え続ける

ある被爆者団体の解散 それでも
伝え続ける(2018年8月17日 宇都宮局 岡崎亮介記者)

被爆者の高齢化が進む中で、当時の記憶や記録をどう後世に伝えていくかが、大きな課題のひとつになっています。

栃木県で語り部の活動を辞めざるを得ない男性と、新たに活動を始めた女性、2人の被爆者の思いを取材しました。


60年の歴史を閉じた

ことし5月に栃木県内の被爆者で作る団体、「栃木県原爆被害者協議会」(以下・栃木被団協)が解散しました。

昭和33年の結成以来、慰霊祭の開催や語り部の活動などを続けてきました。

しかし会員の数はピーク時の3分の1ほどの約100人まで減少し、語り部をする人も4人まで減ったことから、60年の歴史に幕を閉じたのです。

栃木被団協の最後の会長の中村明さん(87)は「いつまで被団協の活動ができるか考えたのですが、残念な気持ちでした」と話します。

体力の限界 語り部を引退

長崎に原爆が投下されたとき、当時14歳の中村さんは爆心地から1.2キロの製鋼所にいました。

中村さんは右足に大けがを負い、いまも後遺症が残っています。

昭和38年、転勤で宇都宮市に移り住んだあと被団協の活動に参加し、「語り部」として小中学校に出向き、栃木の子どもたちに原爆の恐ろしさを伝えてきました。

「語り部」の活動は、被爆者としての責務だと考え、これまで続けてきました。「語り部」の活動で、原爆の投下時の様子をこのように話しています。

中村さん:
「何か音がぐーという音と、バリバリバリバリという音と一緒に重なったような音で、私はふと、外を見ました。そうすると、全体の世の中がピンクに見えました」

しかし中村さんはことしで88歳で目も見えにくくなり、体力の限界も感じています。被団協の解散を受けて、語り部の活動もやめることを決意しました。

栃木被団協 中村明会長:
「苦渋の苦渋ですね。だから、これはいずれにしても遅かれ早かれ、こういう風なことが来るとは思っていましたが、やはり、とうとうきましたね」

記憶がなくても私が語らないと

栃木被団協が解散したあとも、語り部の活動を続けていこうと考えている人もいます。

栃木被団協で最年少の役員を務めた木村和子さん(74)です。木村さんは、広島の寺にいたときに被爆しました。当時1歳で、爆心地から約2キロの寺にいたとき、爆風に襲われました。

頭には当時の傷がいまも残っていますが、1歳だった木村さんには、当時の記憶はありません。

しかし、栃木被団協が解散したほか語り部が少なくなる中で、自分が語らなければならないと考え、2年前から「語り部」の活動を始めました。

木村和子さん:
「自分から出てきて話そうという人はいないですよ。それが一番頑張らなきゃと思う動機ですね」

木村さんは、これまで家族や親類から聞いた、自分の身に起こった話だけでなく、さまざまな資料を読みこんで、伝えたいことをまとめています。

木村和子さん:
「体験はあまり語れない。それが一番はがゆいのです」

被爆を語り継いで欲しい

木村さんはこの日、広島に平和を学びに行く中学生に講演しました。

自身の体験とともに、当時9歳で被爆した女性の手記を朗読して、原爆の恐ろしさを伝えました。

木村和子さん:
「中学生らしい黒い人形のような人たちが転がっていた。お母さん水をください、熱いよ、という声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった」

参加した中学生の男子生徒は「すごく鮮明な感じで、心に残りました。学んできたことを伝えて、恒久的な平和に自分も協力できたらと思います」と話しています。

広島と長崎に原爆が投下されて73年がたち、被爆者は年を重ね、活動にも限界が近づいています。

残された時間は長くはありませんが、木村さんは、出来る限り当時の記憶を次の世代に伝えていきたいと考えています。

木村和子さん:
「まだまだ私も勉強しながら、もう少し自分に自信をつけて上手に語れるようになれば、どこかからみなさんがまた聞かせてくださいという声があれば活動したいです。私もだんだんと年老いていきますので、誰かつないでくれれば、ありがたいと思います」