90歳の今もなお、現役で保育士として働いている女性がいます。みずからの戦争経験を教育に生かす思いを取材しました
子どもたちとふれあう大川繁子さんは、昭和2年生まれの90歳です。今も現役の保育士として、毎日保育の現場に立ち続けています。
毎年8月になると、自分の戦争体験を子どもたちに伝えています。
大川繁子さん:
「戦争に行かなかった女の人や子どもたちもね、毎晩毎晩、敵の飛行機がぶんぶん飛んできて、焼い弾だの爆弾だの、落っことして、みんな焼け死んだ」
話を聞いた女の子:
「戦争はいやだ。おうちがなくなったらいやだ」
90歳の大川さんが今もなお現場に立ち続けるのは、戦時中に自分が受けた教育を、2度と繰り返したくないという思いからです。
大川さんが当時の尋常小学校に通い始めた昭和8年は、教科書が軍国主義的な内容に変わった時期でした。
大川繁子さん:
「『ススメススメ 兵隊ススメ 日の丸の旗 バンザイバンザイ』って、そういう国の教育が軍国教育に変わった。私はその洗礼を受けた第1号です」
当時、子どもたちが書いた学校の文集は、戦争を賛美する内容であふれていました。
大川繁子さん:
「『我が決死隊勇ましく、敵の陣地に突撃だ』子どもの詩だよ。これが優秀な詩として残るなんて」
戦局が悪化する中、軍国教育もエスカレートしていきました。
大川繁子さん:
「敵兵が上陸してきたら一人一人がね、竹やりで突き刺せって、なぎなたの練習させられて。やーっ、やーっ、進めって。今考えると、向こうは機関銃持ってくるのにね。竹やりだとその前にダーってやられちゃいますよね。そんなことも全然不思議に思わずやってたんですよ。本当に一生懸命」
終戦後、23歳で足利市で保育士として働き始めた大川さんは、のびのびと遊ぶ子どもたちを見て、初めて自分が受けた教育が偏っていたことに気づいたといいます。
「自由に生きる力を育てたい」と大川さんは、過去の経験を振り返り、子どもたちの自主性を尊重する保育を目指しました。
保育内容にプログラムはあえて用意していません。外遊びや読書など、子どもたちは保育士の指示に従うのではなく、自由にやりたい遊びを選びます。
給食も決められたメニューではなく、バイキング方式です。自分の体調などから、食べきれる量を考えさせるねらいです。
こうした教育が自分で考え、行動できる基礎になると大川さんは考えています。
大川繁子さん:
「一番言いたいことは、教育ほど恐ろしいものはない。それを言いたいんです。自分で考えて、自分のやりたいことをやるということ。上から言われないでね。だからみんなそれぞれ、力がついていく」
保育士として67年目を迎えた大川さんは、子どもたちの成長に関わるこの仕事を、体力が続く限り続けていきたいと考えています。
大川繁子さん:
「今うちの園で預かっている1歳児なんか、まっさらです。もう3歳だって真っ白。そこへ植え付けることだから、すごく幼児教育って大事だなと思いますね。自分で考えて、自分で判断してほしい。だからうちの保育目標は、『元気な体、元気な心、自由に生きる力と責任』。それを小さいうちから身につけようと思っている」
かつてのような教育は繰り返して欲しくない。90歳の現役保育士は、これからも、子どもたちの成長を見守り続けます。