ある家族の決断 国後島から決死の脱出

ある家族の決断
国後島から決死の脱出(2018年8月9日 室蘭局 遠藤英訓記者)

国後島から決死の脱出。その決断は、後に続く悲劇の始まりでした。当時11歳の少年だった男性が、今も目に焼き付く光景を絵に描きました。

NHK札幌放送局では、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しています。

「ソビエト軍に連れて行かれる」噂

旭川市の榎信雄さん(84)は、北方四島の国後島で家族9人で暮らしていました。

国後島は戦時中、比較的平穏でしたが、終戦後直後ソビエト軍が侵攻し、島は占領されました。

「男の子はウラジオストクに連れて行かれる」

人々の噂を耳にした榎さんの両親は、島を脱出することにしました。

この決断が悲劇の始まりとなりました。

家族を乗せた船がしけに飲まれた

10歳の妹、そして5歳と3歳の弟の変わり果てた姿です。

榎さんが絵に描いたのは、浜辺に打ち上げられた3人の子どもの遺体でした。

昭和20年9月24日の夜遅く、家族9人は集落の他の家族とともに、ロープでつなげた15隻の船で島を後にし、50キロ先の根室を目指しました。

しかし海はしけとなり、一行はロープを切って、それぞれが避難することになりました。

榎さん一家を乗せた船は、その後漂流しました。島で海産物の検査員をしていた父の悦郎さんは、必死に船のかじを取ろうとしました。

榎さんはその姿を忘れることができません。

榎信雄さん:
「父は櫓をこいで手の豆がつぶれて、両手が血だらけで真っ赤だった。死ぬ覚悟だったのか、その後、櫓を失ってからは家族で船の後ろに集まって、ただ海を漂った」

榎さんは当時の様子を生々しく語りました。この後、一家が乗った船は高波を受けて転覆。

全員が夜の海に投げ出され、榎さんの記憶はそこで途絶えました。次に目を覚ましたとき、榎さんは真っ暗な浜辺に打ち上げられていました。

こんな死に方をするのか

9人いた家族のうち、5人の姿が見えなくなっていました。辺りが明るくなり、辺りを探すと、3人が打ち上げられていました。

榎信雄さん:
「見つかった弟と妹は、口も鼻も耳も砂だらけ。さらに妹の体には海藻が巻きついていた。こんな死に方をするのかと思った。きのうまで元気に遊んでいたのに」

榎さんは声を詰まらせました。

残った家族は、3人の遺体を小高い丘に埋葬し、その後仲間の船に救助され、北海道へ渡りました。6歳と0歳の2人の弟は見つかりませんでした。

そこが国後島のオリコノモイ崎だったことは、後になって知りました。

月命日に祈り

引き揚げ後、一家は旭川で新たな生活を始めました。

日々の食事にも困る生活でしたが、母の喜代さんは5人の子どもたちの月命日になると、近くの寺を訪れ、地蔵に向かって静かに手を合わせていました。

喜代さんは死ぬ瞬間まで、死んだ子どもたちのことを思っていたといいます。

榎さんは戦後、墓参などで国後島を2回訪問した。しかし、3人を埋葬した浜辺には近づくことができず、船の上から手を合わせるのが精いっぱいでした。

「弟たちの供養が出来ていないのではないか」

榎さんは自分が見た光景を絵にすることで、弟たちの供養をしたいと思いを込めて、この絵を描いたといいます。

今も問い続ける「なぜ」

なぜ、国後島からの脱出を決意したのか。

なぜ、5人の兄弟が命を落とさなければならなかったのか。

榎さんは今も問い続けています。

榎信雄さん:
「戦争がなければ、という思いが強い。あの戦争があったから5人が死んだ。戦争がなければ島を脱出することもなく、子どもたちも死ぬことはなかった。貧しい生活でも生きていればなんとかなったのに」

そう語る榎さんの目に、涙が浮かんでいました。