国後島から決死の脱出。その決断は、後に続く悲劇の始まりでした。当時11歳の少年だった男性が、今も目に焼き付く光景を絵に描きました。
NHK札幌放送局では、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しています。
旭川市の榎信雄さん(84)は、北方四島の国後島で家族9人で暮らしていました。
国後島は戦時中、比較的平穏でしたが、終戦後直後ソビエト軍が侵攻し、島は占領されました。
「男の子はウラジオストクに連れて行かれる」
人々の噂を耳にした榎さんの両親は、島を脱出することにしました。
この決断が悲劇の始まりとなりました。
10歳の妹、そして5歳と3歳の弟の変わり果てた姿です。
榎さんが絵に描いたのは、浜辺に打ち上げられた3人の子どもの遺体でした。
昭和20年9月24日の夜遅く、家族9人は集落の他の家族とともに、ロープでつなげた15隻の船で島を後にし、50キロ先の根室を目指しました。
しかし海はしけとなり、一行はロープを切って、それぞれが避難することになりました。
榎さん一家を乗せた船は、その後漂流しました。島で海産物の検査員をしていた父の悦郎さんは、必死に船のかじを取ろうとしました。
榎さんはその姿を忘れることができません。
榎信雄さん:
「父は櫓をこいで手の豆がつぶれて、両手が血だらけで真っ赤だった。死ぬ覚悟だったのか、その後、櫓を失ってからは家族で船の後ろに集まって、ただ海を漂った」
榎さんは当時の様子を生々しく語りました。この後、一家が乗った船は高波を受けて転覆。
全員が夜の海に投げ出され、榎さんの記憶はそこで途絶えました。次に目を覚ましたとき、榎さんは真っ暗な浜辺に打ち上げられていました。
9人いた家族のうち、5人の姿が見えなくなっていました。辺りが明るくなり、辺りを探すと、3人が打ち上げられていました。
榎信雄さん:
「見つかった弟と妹は、口も鼻も耳も砂だらけ。さらに妹の体には海藻が巻きついていた。こんな死に方をするのかと思った。きのうまで元気に遊んでいたのに」
榎さんは声を詰まらせました。
残った家族は、3人の遺体を小高い丘に埋葬し、その後仲間の船に救助され、北海道へ渡りました。6歳と0歳の2人の弟は見つかりませんでした。
そこが国後島のオリコノモイ崎だったことは、後になって知りました。
引き揚げ後、一家は旭川で新たな生活を始めました。
日々の食事にも困る生活でしたが、母の喜代さんは5人の子どもたちの月命日になると、近くの寺を訪れ、地蔵に向かって静かに手を合わせていました。
喜代さんは死ぬ瞬間まで、死んだ子どもたちのことを思っていたといいます。
榎さんは戦後、墓参などで国後島を2回訪問した。しかし、3人を埋葬した浜辺には近づくことができず、船の上から手を合わせるのが精いっぱいでした。
「弟たちの供養が出来ていないのではないか」
榎さんは自分が見た光景を絵にすることで、弟たちの供養をしたいと思いを込めて、この絵を描いたといいます。
なぜ、国後島からの脱出を決意したのか。
なぜ、5人の兄弟が命を落とさなければならなかったのか。
榎さんは今も問い続けています。
榎信雄さん:
「戦争がなければ、という思いが強い。あの戦争があったから5人が死んだ。戦争がなければ島を脱出することもなく、子どもたちも死ぬことはなかった。貧しい生活でも生きていればなんとかなったのに」
そう語る榎さんの目に、涙が浮かんでいました。