特攻隊員家族の悲劇を伝える

特攻隊員家族の悲劇を伝える(2018年7月31日 宮崎局 藤浪しのぶ記者)

太平洋戦争末期、爆弾を積んだ航空機などで敵艦に体当たりする「特攻」で多くの命が失われました。その中の1人で、宮崎県延岡市出身の若者とその家族を題材にした劇が、ことし父親が残した手記をもとに上演されました。

延岡の特攻隊員と家族の物語

「大量の焼い弾攻撃だ。焼い弾が民家を直撃。燃え上がる我が家もすごい煙に包まれる。家が燃える、大変だ」

7月、延岡市で上演された劇のモデルとなったのは、延岡の出身で、特攻で命を落とした黒木國雄さん(享年21)とその家族です。

出撃する國雄さんの機体を、帽子を振って見送る後ろ姿の写真が残されています。父の肇さんです。

鹿児島県の知覧基地で息子の出撃を見送るという、まれな経験をした肇さんは、当時の経験を克明に手記に残していました。

「何時(いつ)かあの姿にて只今帰りましたと遷つり来る様に思われる/敵艦に突入する、という無線まで聞いたのに、当時の姿のまま帰ってくるのではないかと夢想する」

戦争に翻弄された父の思いが小さな文字でびっしりと記された、この手記をもとに劇は作られました。

「口に出せる状況じゃなかった」

劇を演じるのは戦争を知らない若い世代です。この日、モデルとなった家族の1人、黒木民雄さん(84)が稽古場を訪れました。

民雄さんは黒木家の次男で、10歳年上で軍服姿の兄の國雄さんは、憧れの存在だったといいます。

休憩時間、民雄さんは妹役を演じる女子高校生のこはるさんから声をかけられました。周囲から「兄の死を悲しんだらいけない」と言われるシーンについて、当時の人が置かれた状況がすぐには理解できず、演じ方を悩んでいたのです。

こはるさんから「お兄ちゃんが大好きだと口に出せる状況ではなかったんですか?」と問われた民雄さんは、「あんたの気持ちは本当じゃけども。当時は異常な世界だったんですよ。終戦まではお国のために尽くして死ぬことは名誉なこと。今じゃ考えられんよね」と答えました。

演じる立場で感じること

こはるさんたち出演者は、稽古の合間に延岡市の高台に建つ慰霊碑を訪ねました。

國雄さんが特攻で亡くなった1か月余り後、延岡の街を襲った「延岡空襲」の犠牲者のために建てられたもので、多くの人の名前が刻まれています。

この時の空襲では、民雄さんや父の肇さんが暮らしていた家も焼かれました。

慰霊碑に手を合わせたあと、延岡の市街地を見下ろしていたこはるさんは、「改めてすごいたくさんの人が戦争で亡くなったんだと感じました。今回の舞台を通して、普通の平和な日々が当たり前じゃないんだなということを実感しました」と話していました。

父を生涯苦しめた「しっかり頼むよ」

迎えた劇の本番。

招かれた地元の中学生に混じり、民雄さんも見守りました。舞台は進み、クライマックスとなる、出撃を前にした父と子の別れの場面にさしかかりました。

「父ちゃん、おれの晴れ姿見られてうれしいじゃろ」「あぁうれしい、喜ばしい、しっかり頼むよ」

特攻する息子にかけたこの最後の言葉に、父は生涯苦しみ続けました。

「あの子を死なせたのは私なんですよ。私が期待をかけたから、優しいあん子は、ただ私の期待に応えようとしただけじゃっとですよ…」

劇を見た中学生からは「特攻へ行った人も本当は死にたくなかったんだろうなと思った。そういう心を抑えつけられていたことは痛ましいことだと思った」といった感想が聞かれました。

黒木民雄さん:
「戦争の悲惨さ平和の尊さが、だんだん忘れられていくんじゃないかと危惧しています。劇団の人たちが後世に伝えてくれるということは、非常に遺族としてはありがたい」

戦争の大義の前では、家族を思う心さえ封じられてしまう。その教訓は、手記から劇に形を変えて、受け継がれています。