京都府舞鶴市沖の海底でことし6月、72年ぶりに姿が確認された戦跡があります。旧日本軍の潜水艦「呂500」、別名「Uボート」です。
同盟国だったドイツから譲渡されたもので、戦後GHQによって海に沈められました。しかし取材を進めると「呂500」は、終戦後、意外な行動をとっていたことがわかりました。当時の混乱の中で、何が起きたのか。
潜水艦「呂500」は、舞鶴市の沖合い約20キロ、深さ約90メートルの海底に沈んでいました。全長約77メートルの船体に大きな破損は見られず、ほぼ原型をとどめていました。
「呂500」は、もともとドイツで作られた「Uボート」と呼ばれる潜水艦でした。昭和18年に日本に譲渡され、主に乗組員の訓練用に使われました。
終戦後の昭和21年、GHQによって海に沈められて処分されましたが、終戦から海に沈められるまでの経緯は、防衛省に残された資料にも詳しい記録がありません。
旧日本軍の潜水艦は、合わせて58隻が同じように海に沈められるなど処分されていますが、多くは場所もわかっていないため、貴重な発見だということです。
取材を進めると、元乗組員が生存していることがわかりました。その1人、福井県越前市に住む小坂茂さん(92)は、当時19歳で砲撃担当の兵士として乗り込んでいました。
小坂さんによると「呂500」に出撃命令が出たのは終戦直前の昭和20年8月10日ごろで、乗組員たちは必要な食糧を3か月分積み込んだといいます。
しかし8月15日、玉音放送が流れ、戦争は終わりました。「呂500」は一度も出撃しないまま、役割を終えようとしていました。
ところが小坂さんは意外な事実を証言しました。「呂500」は、出撃したというのです。それも終戦後の8月15日以降に。
小坂茂さん:
「たぶん18日やと思うんやけど、昼の2時か3時ごろ、出撃したと思います。対日参戦したソ連へ行こうと思ったのではないですかね。そこまでは私らは下っ端のもんやで、分かりはしませんけどね」
なぜ終戦後に出撃したのか。詳しい経緯を知るもう1人の元乗組員がいました。島根県松江市に住む原弘さん(96)は当時23歳で、庶務担当の兵士として艦長のそばで勤務していました。
原さんによると終戦翌日の16日、艦長が乗組員に対して、「ソ連のウラジオストクに向け出撃する。出て行くからには二度と本土には帰れない」と告げたということです。
原弘さん:
「敗戦はわかったですけれど、それではおさまらなかったということですね。まだ帝国海軍は健在なり、という考えもあって。みんな艦長以下一心同体です。あの時の雰囲気というものは、ちょっと普通じゃないですよね」
そして終戦から3日後の8月18日、出撃の日を迎えました。原さんは今も、出撃前の様子が忘れられないといいます。
乗組員たちが、艦に描かれていた「日の丸」のマークを消したというのです。
原弘さん:
「艦橋の日の丸はみな消しました。艦長の考えとしては、日本国を離れたという感覚ではないでしょうかね。独断で出港したのですからね」
日本海へ出撃した「呂500」。しかし軍の命令を受け、敵艦と戦うことのないまま、港に引き返しました。
原さんはこの時の思いを「せっかく行ったのに、引き返してしまったでしょ。それはみんな無念ですね。敗戦ということがいかに惨めなものかということですね」と回想します。
原さんは戦後、この体験を家族にも語ってきませんでした。「胸を張って話せることではない」との思いからです。しかし今回、海底で見つかった「呂500」の姿をニュースで見た時、原さんは心が揺さぶられたといいます。
潜水艦の発見をきっかけに、原さんはある決意をしました。体験を文章にまとめて、新聞に投稿することにしたのです。長い沈黙の中、いつか社会に伝えたいと思い続けていました。
原弘さん:
「本当は、ずっと戦後何年か思い続けていたことを書いていました。家族にも話していないけれど、記録はしていました」
戦後73年がたち、50人ほどいた乗組員のうち、今も生存し連絡が取れる人は原さんと小坂さんの2人だけです。
原さんは、異様な雰囲気の中で行われた終戦後の出撃について書き残すことが、みずからの役割だと考えています。
戦争が人の心を変えてしまうことを知って欲しい。その願いを、書き残す文字に込めています。
原弘さん:
「あの当時はね、なんでああいう気持ちになったか言われるとまったく考えられませんね。人間もやっぱりああいう風になると、洗脳されてしまうんですね。もう二度とああいう悲惨な戦争はしてもらいたくないです」
終戦後に行われた「禁断の出撃」。潜水艦の発見をきっかけに、長く沈んでいた73年前の歴史が今、浮かび上がろうとしています。
この記事のニュース動画はこちらをご覧ください