「原爆」語れなくなる前に、もう一度

「原爆」語れなくなる前に、もう一度(2017年8月9日 長崎局 馬場直子記者)

被爆者の高齢化が進む中、長崎では、認知症の症状が進み体験を語る活動をやめていた被爆者の男性が、この夏、同じ被爆者の妻とともに再び挑戦しました。

認知症でことばが出なくなった

2010年の長崎原爆の日、被爆者代表として「平和への誓い」を述べた内田保信さんは、自分の体験を話すことは天から与えられた任務だとして、被爆体験を語り継ぐ活動に、多いときには月の半分を費やしてきました。

しかし、88歳になった今(2017年)、認知症の症状が進行して活動を続けられなくなっています。記憶が曖昧になり、自分の体の痛みも忘れてしまうのです。

内田さんと60年余り連れ添ってきた妻の美喜江さん(88)もまた被爆者です。夫の認知症が日々進んでいくのを見守るしかありませんでした。

美喜江さん:
「認知症で生活のすべてが変わりました。あまり動こうとしない、しゃべろうとしない。私のことばが理解できないのです」

4年前、修学旅行生を相手に語った被爆体験が、内田さんにとって最後の活動になりました。話をしている最中で突然、ことばが出なくなったのです。会場を出てトイレに駆け込み、戻ってきませんでした。美喜江さんはその時のことを、「同じところ(文脈)を行きつもどりつ、それからトイレ。これはもうだめだと思った」と振り返ります。

内田さん本人も被爆講話ができなくなったことに、さびしさを感じました。その後も毎年のように講演の依頼は来ましたが、すべて断り続けてきました。

もう1度、語ってみよう

転機が訪れたのはことし7月でした。核兵器を法的に禁止する初めての条約が国連で採択されたのです。原爆投下から72年、被爆者の願いがようやく前に進み始めました。「自分も何か行動したい」と、内田さんはもう1度、被爆体験を語ってみようと決意しました。

認知症の影響で、かつてのように順序立てて話すのが難しい内田さんに、美喜江さんは、以前書いた被爆体験記を読み上げるようアドバイスしました。何度もつかえながら、体験を語る練習を繰り返します。隣で聞いている美喜江さんは「やっぱり聞いていると私も自分の体験と重なるからきついね」と涙をぬぐいました。

次の世代に願いを託す

この夏、いよいよ内田さんが被爆体験を語る日が訪れました。当時を知らない被爆2世の人たちに体験を伝えます。

「原爆のことをよくピカドンと言うが、私にはピカとドンが重なって感じられた」

内田さんは練習どおり原稿を読み上げます。「頭や顔は腫れ上がってしまって。髪が抜ける、高い熱でうわごとを言う、こうした状態になると必ず命を奪われる。きょうは僕の番じゃないか」

1つ1つのことばに力がこもり、原稿にないことばも出てくるようになりました。

内田さんは「これから核兵器を使おうとする者は人間ではない」と、力を込めて語り、最後に「周りの人にきょうあったことを話してください。1人でも多くの人に語ってください。そのことを心を込めてお願いしたい」と、被爆者としての願いを託しました。

美喜江さんは「役に立たないと思っていたので、役に立ってうれしい」と笑顔を見せていました。
内田さんは「大成功だと思います。1人でも多くの方々にこの現実を知ってもらって今の世界を変えていかないといけない」と話していました。

語れなくなるその日が来るまで、被爆の体験を伝えていきたい。2人の平和への願いは続いていきます。