ここでやめられない 被爆した医師の訴え

ここでやめられない 被爆した医師の訴え(2017年8月7日  長崎局 畠山博幸記者)

2017年、歴史上初めて核兵器を法的に禁止する条約が国連で採択されました。交渉会議には長崎市の代表も出席し、亡くなった被爆者や高齢になった被爆者の核廃絶への強い思いを訴えて、条約の採択を後押ししました。

被爆者の思いを訴え

国連で行われた核兵器禁止条約の交渉会議で、長崎市の代表として演説した、被爆者で医師の朝長万左男さん(74歳)は、2人の被爆者のことばを引用して、核兵器の恐ろしさを訴えました。

(朝長さんの演説より):「ある被爆者は『核兵器は人間らしく死ぬことも、生きることも許さない』と言いました。別の被爆者は76歳で白血病で苦しんでいる時、私に『先生、私の体の奥に60年間も原爆が生き延びていたのですね』と言いました。生涯にわたり被爆者は放射線の影響におびえながら生き続けているのです」

「体の奥に原爆が生き延びていた」と言ったのは、9年前に白血病で亡くなった吉田孝子さんです。吉田さんは爆心地近くで被爆し奇跡的に助かりましたが、被爆から60年あまりたってから白血病になりました。

研究で明らかになった恐ろしさ

白血病と診断したのが、原爆の放射線が人体に与える影響を研究してきた朝長さんでした。細胞の中にある染色体は本来2本1組ですが、吉田さんはそれが3本になったり、1本になったりしていました。朝長さんはそこに原爆の恐ろしさをみたといいます。

吉田さんは亡くなる直前まで被爆体験を語り続け「原子爆弾が私の体の中に巣くっていて、表に出てきて、びっくりした。核兵器のおそろしさは、本当にとどまることがない」と伝えました。

朝長万左男さんは「今は子どもの時の被爆者が、80代になっているわけでしょう。それでもなお(白血病やガンが)出続けるということがわかったということは、かなり強烈な印象を抱かれた方が多いですね」と話しています。

「人間らしく生きることも死ぬこともできない」

朝長さんが、国連で行われた交渉会議でもうひとつ引用したのが、「私たちは人間らしく生きることも人間らしく死ぬこともできませんでした。これが原子爆弾です」という、別の被爆者のことばでした。

82歳の今も被爆体験を語り続けている下平作江さんです。防空壕に避難していた下平さんが原爆投下後に自宅に戻ったとき、母と姉は黒焦げの死体に変わっていました。さらに生き残った妹も自殺しました。被爆後、おなかに出来た傷がいつまでたっても治らず悩んでいました。

朝長さんは下平さんの活動について、「身内を亡くして、自分も何回も後遺症に苦しむ。そういうことを繰り返して、しかも終わりがない。核兵器はもう2度と、という気持ちで彼女はエネルギーを出しながらやってきているわけでしょう。2度と使えない兵器だという縛りは被爆者から世界に広まっていったと思いますね」と話しています。

「ここでやめるわけにはいかない」

7月7日、歴史上初めての核兵器禁止条約が採択されました。条約には被爆者による核廃絶の目標達成への努力を認識し合意したと書かれました。被爆者らが集会を開いて条約を歓迎しました。

しかし、核保有国に加え日本などは、核兵器を一方的に禁止することは現実的ではないとして条約に加盟しない方針です。

朝長万左男さん:
「国連の場では中小の国が122か国も頑張ってここまで成立させたけども、実際に世界中にこの考え方が浸透しているかというとまだまだなんですよね。これを浸透させていくというのが第2ステージだと思います。そのためにはまだ被爆者は活動をここでやめて休憩に入るわけにはいかない」

原爆の放射線影響は被爆者に一生涯つきまとう恐ろしさがこの会議で認識されたことが、核兵器禁止条約に被爆者の存在が明記された理由の一つにもなったとされています。

条約の採択後、朝長さんは日本政府が核兵器の保有国と非保有国の協力のあり方を議論するために設置した「賢人会議」の委員に選ばれました。核保有国や日本政府に核兵器禁止条約への加盟を訴えていくということです。