川底の瓦が伝える原爆の記憶

川底の瓦が伝える原爆の記憶(2017年8月6日 おはよう日本 近松伴也ディレクター)

広島に原爆が投下された当時の惨状を知る被爆者が年々少なくなる中、市内を流れる元安川では原爆投下で一変した広島の街の記憶を探し求める取り組みが続けられています。
当時、多くの人が水を求めて飛び込み、そのまま命を落とした川の中には、72年が経った今でも原爆の爆風で吹き飛ばされた建物の一部や、犠牲者たちの遺品が沈んだままになっています。

川底に眠る残骸

広島大学の研究員、嘉陽礼文さん(39)は、元安川で15年にわたって被爆の痕跡を探し続けています。爆風で吹き飛んだ建物の残骸などが、72年たった今も見つかります。嘉陽さんが集めたガレキは1000点以上にのぼり、その中には日用品も多く含まれています。

例えばこの「防衛食」と書かれた陶器の破片。戦時中、缶が不足するなか、肉やイワシを保管する容器として流通していました。

とけて瓦に付着した指輪。当時、結婚指輪をする習慣が広がり始めていました。金属が焼けとけた様子が、原爆の熱線の強さを物語っています。

爆心地近くを流れる元安川は、当時は、川遊びをする子どもや散歩をする人が訪れる憩いの場所でした。そこに投下された一発の原子爆弾で、亡くなった人はその年だけで14万人いました。それ以外に身元が分からない死者が7万人いるとみられています。
引き揚げられる被ばくの痕跡は、遺骨や形見がない遺族にとって亡くなった人に思いをはせるものになっているといいます。

嘉陽さんは7年前に見つかった陶磁器製のボタンを被爆者が見た時の光景が忘れられません。

嘉陽礼文さん:
「手に取られた時、目の色が変わられて、ご自身の兄弟がつけていたもの服のものと一緒かもしれないというふうにおっしゃられてですね。ここにご自身のご兄弟を投影されて、ずっと見入っていらしたですね。ご遺骨、ご遺品はないけれども代わりの類似するものでも心の傷をわずかでも癒える部分があると思うんです」

ある被爆者との出会い

嘉陽さんの活動の原点はある被爆者との出会いでした。

山岡ミチコさんは爆心地から800メートルのところで被ばくしました。山岡さんは82歳で亡くなるまで語り部として原爆の被害の大きさを伝え続けました。

嘉陽さんは東京に住んでいた中学生の時、修学旅行で山岡さんの被ばく体験を聞き、原爆で吹き飛ばされたガレキが元安川に沈んでいることを初めて知りました。

そのとき山岡さんは、「川に行ったら原爆瓦というものがあるから拾って帰りなさい。たくさんの方がここで亡くなられてそういった方たちの魂がこもっていますからね、祈りながら探してください」と話したということです。

山岡さんの言葉をうけて川に向かった嘉陽さんは、熱線で焼け焦げた瓦を見つけ、原爆の被害の悲惨さを物語る痕跡が人知れず眠っていたことに衝撃を受けました。


嘉陽礼文さん:
「ショックを受けましたね。実際に川から拾ったということでここであったのかということがすごく現実味を帯びて感じられたので、その時に思ったのは将来またもう一度きてもっとじっくり時間をかけて探したいと思いました」


その後、嘉陽さんは進学先として広島大学を選びました。

山岡さんは4年前に亡くなりましたが、被ばくの痕跡を見つけ出し実態を伝えることはその思いを受け継ぐことにもつながると考えています。

原爆ドームの一部も

元安川の調査を続ける中、嘉陽さんは去年、原爆ドームの一部とみられる石を見つけ、ことし6月、その回収作業が行われました。近くに住む被爆者たちが見守る中、引き上げられたのは重さ200キロにもなる石の塊でした。原爆ドームのバルコニーの一部とみられます。

被爆者と共に原爆に巻き込まれた石は、表面の付着物が年月の経過を物語ります。被爆者たちは72年前の当時に思いをはせ「本当に感謝します。ありがとう」と言って嘉陽さんの手を取る人もいました。

嘉陽さんは「亡くなった方の思いが詰まっておりますから、生きている我々や遺族にとっても大変重要なものです。体が動き続ける限り続けていきたいと思います。そういった意味で終わりはないです」と話していました。元安川にはまだ推定で500キロほどの原爆ドームの破片が残されているということで、今後も時間をかけてそのすべてを回収したいと話しています。