忘れられた「上海事変」戦記は語る

忘れられた「上海事変」戦記は語る(2019年10月8日 金沢局 森山睦雄記者)

「第一次上海事変」を詳しくご存じの方は、それほど多くないと思います。
1932年に中国の上海で起きた日中両軍の衝突ですが、同じ時期に起きた「満州事変」に比べて"忘れられた戦い"と言えるかもしれません。

その「第一次上海事変」に関する貴重な記録が、金沢市内に残されていたことが取材でわかりました。
見つかった資料からは、生死をかけた戦場の真っ只中で正確な記録を必死で残そうとした、当時の軍人たちの姿が浮かび上がってきます。

気づかれなかった「戦記」

資料が見つかったのは、旧日本陸軍に関する資料が数多く保管されている、陸上自衛隊金沢駐屯地の史料館「尚古館」です。

許可を得て、展示資料の一つ一つを手にとって内容を確認していくと、辞書サイズのある冊子が目にとまりました。

「上海會戦記」という題名から「第一次上海事変」の記録と推測できました。しかし自衛隊の担当者によると、昔から保管しているものの内容を確認したことがなく、詳細はわからないとのことでした。

許可を得て全てのページを写真で撮影し、第一次上海事変を長年研究している元防衛大学校教授の影山 好一郎さんを訪ねました。

写真を詳しくみた影山さんは、「かつて金沢に司令部を置き、第一次上海事変に加わった陸軍の第九師団の記録ではないか」と話しました。

第一次上海事変とは?

1932年1月、緊張が高まっていた当時の上海で日中両軍が衝突した「第一次上海事変」では、日中双方で4万人近い死傷者が出たとされます。

前年の満州事変への国際社会の目をそらそうと、日本陸軍が画策したとされています。

翌年、日本は国際連盟を脱退し、国際社会で次第に孤立を深めていきました。第一次上海事変は、日本が戦争へと突入する「入り口」で起きた象徴的なできごとのひとつと位置付けられています。

「興奮」と「いらだち」が赤裸々に

「上海會戦記」には、海外出兵に対する当時の国内の盛り上がりが、詳細に記述されていました。

1932年、第九師団が上海に向けて金沢駅を出発するときの様子です。

上海會戦記より:
「見送り人の群衆で軍隊の乗車が出来ない位。(中略)大都市は勿論の事、どんな小さな駅でも必ず見送人の山を築く有様」

影山さん:
「非常に素直に書いていますね。喜怒哀楽が素直に出ているし、生き生きとした文章です。自分たち第九師団に出兵の白羽の矢が立ったという喜びまで感じ取れます」

しかし本格的な戦闘が始まるにつれ、いらだちや、とまどいをうかがわせる記述が目立ってきます。

中国軍が事前に築いていた、「クリーク」と呼ばれる水路や陣地によって進撃が阻まれたことについて、次のように記されています。

「クリークは縦横にクモの巣の様に通じ、目下減水期で舟は通じないが、障害の度は依然たるものがある。折角の戦車も屡々立往生し、騎兵は馬を乗り棄てて徒歩で斥候の任務を果たさなけりゃならなかった。
此の地帯を如何して通過すべきか、砲兵を如何して運ぶべきかが頭痛の種(中略)師団の攻撃がすこぶる困難だった」

中国側の陣地について、率直に評価した記述もありました。

「実に堅固そのものである。後から見てぞっとした程だ。堅固なる銃眼や、鉄条網、巧に遮蔽された側防機能は決して俄造りのもので無い」

当初の楽観的な予想に反して日本軍は思わぬ苦戦を強いられ、3回目の総攻撃の際に砲弾の補給が不足して「心細いことおびただしい」と書くなど、最前線の心境が赤裸々につづられていました。

影山さん:
「中国軍の兵力や弾薬の量などについて、事前の情報収集が不足していたことが背景にあります。満州事変で日本の関東軍が一方的に勝利した経験から、中国軍は弱いという先入観を抱き、"鎧袖一触"と思っていたことへの反省として書いているのではないでしょうか」

苦戦から生まれた「英雄」

日本の工兵部隊は、中国軍の陣地を突破しようと爆薬で鉄条網の破壊を試み、工兵3人が爆発にまきこまれて戦死しました。

「會戦記」には、3人の戦死について指揮官が作成したとみられる報告書が含まれていました。

「破壊筒(爆薬)を鉄条網に押し込みたる後、点火するの暇なきを思い、最後の手段たる爆薬を抱きて鉄条網と共に粉砕する悲壮なる覚悟を以て破壊筒に点火を命じたる後、敢然勇躍鉄条網に突入す」
「3名は遂に鉄条網と共に粉砕せらるるに至れり」

影山さん:
「陸軍中央からみたら、苦戦しているという証なんですよ。苦戦しているが故にできるだけ早い時期に軍神を作ることによって、兵士の士気をあげる、さらにサポートする国民の士気を上げる、"士気振作"ということを考えたのでしょう」

実際、当時の陸軍や新聞、ラジオは戦死した3人を「爆弾三勇士」などと大きく取り上げ、称えたのです。

捕虜の尋問記録も

會戦記には、中国の国内事情をうががわせる記述もありました。
中国軍の第十九路軍で戦い、日本軍に降伏した24歳の中国兵捕虜の尋問記録です。

日本軍が作成した捕虜の尋問記録は珍しいということで、強制的な軍隊への動員や不足する装備、降伏した理由、そして内政への不満などが、記述されていました。

問:何時から兵になったか
答:ことしの3月、幾日かよく記憶しませんが、或る日、友達と四人連で下関の停車場付近にぶらぶらしていた所を突然支那の軍隊に捉まえられて引張って行かれました

問:何と云う軍隊に連れて行かれたか
答:二十六路新兵団とだけ聞いています。

問:其後、何処へ運ばれて行ったか
答:汽車にて蘇州に運ばれて行きました

問:其処で何をしていたか
答:我々は牛馬の様に酷使され昼も夜も塹壕を掘りました。

問:お前等は銃や軍服を支給されなかったか
答:私は銃も軍服も支給されなかった。

問:何故、日本軍に収服(降伏する)を望むのか
答:支那軍隊は壮年の者と見さえすれば「拉夫」して酷使するし、金も糧食も無く到る処で掠奪して吾々百姓(人民の意味)を虐める。

答:蒋介石等が如何に口先で甘いことを云っても、実は我々百姓の事等決して心配して居るものではない。

影山さん:
「捕虜は生存のために日本側にすり寄る意識があった可能性もあり、すべての内容をそのまま信用することはできません。ただ、中国側も苦しい状況にあったことはうかがえる内容で、日本軍としてはのどから手が出るほどほしかった重要な情報だといえます」

公的記録の重要性を今に問う

約300ページにも及ぶ「上海會戦記」を通じて当時の軍人達は、後世に何を伝えようとしたのか。

影山さん:
「苦しい中の姿をなんとか残さなければいけない。そのことによって、2度とそういう苦しい状況に陥らないように、あるいは国としては誤った道を行かないように、あらゆる分野や立場の日本人に、その参考にしてもらいたいと考えたのではないでしょうか。
公的記録の重要性は今も昔も変わりません。現代においても公の仕事に携わる人は、正確に記録を残して蓄積する努力を惜しんではいけないと思います」

「會戦記」の最後には、戦記全体を振り返る「結言」があります。

「一言せねばらなぬ事が在る」という前置きに続いて、日本軍への率直な批判が書かれていました。

「何故に事前の偵察を十分にしなかったか」
「何故に攻撃を急いだか」
「攻撃の重点は他にもっと適当な方面に向けられなかったか」

中国軍の思わぬ抵抗によって苦戦に陥るなかで、当時の軍人達が詳細に記録し続けた「會戦記」があったからこそ、90年近く前のできごとを私たちは知り、そこから教訓を学び取ることができます。

偶然目に止まった辞書サイズの冊子は、自分たちの誤りも含めて事実をありのままに記録し、評価は後世にゆだねるという公的記録の本来の姿勢を、問いかけているように感じました。