戦争に翻弄された「101回目」の甲子園

戦争に翻弄された
「101回目」の甲子園(2018年8月3日 京都局 佐藤崇大記者/大阪局 平原啓司カメラマン)

白球を追いかけた者なら誰もが憧れる甲子園。夏の大会は今年で100回目を迎えましたが、歴史上ただ1度だけ、公式には数えられていない「幻の甲子園」と呼ばれる大会があったこと、ご存じですか。

昭和17年(1942年)の大会に出場した選手たちが見た景色とは。

76年ぶりの母校応援

ことしの夏の高校野球京都大会に、車いすで球場に向かう男性の姿がありました。原田清さん(91)です。

平安中学、今の龍谷大平安高校のキャッチャーとして「幻の甲子園」に出場し、準優勝を果たしました。

球場で母校の選手を応援するのはそのとき以来、初めてです。龍谷大平安のコーチに出迎えられ、現役の選手たちに「がんばってね」と声をかけました。

少しでも日陰で見てもらおうと選手の親たちが車椅子を持ち上げて、バックネット裏の日陰まで運んでくれました。

原田さんは、紺色に白地で平安のHの文字が入った母校の帽子を「年明けにね、姪にもらったんですわ。せっかくだから被ってこようと思ってね。今回初めて被ったんですわ」と、自慢げに見せてくれました。

「野球はいいね。雰囲気が良い」

原田さんは目を細めながら見守っていました。

京都市はこの日も38度以上の猛暑日だったため、原田さんは3回途中で球場をあとにしましたが、強力打線を誇る龍谷大平安が、得点を重ねる様子を見ることができました。

龍谷大平安はそのまま勝ち進み、100回目の夏の甲子園への切符を手にしました。

「鉄人」の引き合わせか

私(記者)が原田さんに出会ったきっかけは、平安OBで「鉄人」と呼ばれた元プロ野球選手、衣笠祥雄さんの訃報でした。

龍谷大平安高校を訪れて衣笠さんの思い出を探し、野球部100年記念誌をめくっていたところ、「幻の甲子園」に関する記述が目にとまったのです。

原田さんが出場した大会が「幻の甲子園」と呼ばれるのには理由があります。太平洋戦争中、夏の甲子園は中止されていましたが、昭和17年、甲子園を戦意高揚のために利用しようと、国が主催した大会が開かれました。

現在の大会とは主催者も開催の目的も異なるため、公式の記録としては残されていません。

私(記者)も高校球児でした。龍谷大平安のような全国区の高校ではありませんでしたが、甲子園出場を夢見て野球に青春をささげました。

「戦時中に開かれた大会はどんなものだったのだろう」

原田さんが京都府内の介護施設で暮らしていることがわかり、すぐに取材を申し込みました。

「軍務公用です」観衆から拍手

「懐かしいなあ」

当時の写真を眺める原田さんは、ホームベースから眺めた景色を今でも覚えているといいます。バックスクリーンの写真にはスコアボードの左右に「勝って兜の緒を締めよ」「戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが掲げられています。

このときも甲子園のスタンドは満員でしたが、アナウンスは戦時中の様相を映したものでした。

原田清さん:
「甲子園にはいっぱい入ってるでしょ、観衆。『何々様、軍務公用です。直ちに家に戻って下さい』って流れるんですわ。するとみんな拍手ですわ。悲壮な時代でしたね」

召集令状が届いたことに観衆が拍手する、戦時色の強い大会でした。

長野県の松本商業、現在の松商学園の野球部に所属していた、宮坂真一さん(93)も、当時の独特の雰囲気につつまれていた球場を鮮明に覚えています。「戦争中だなということは誰が見ても分かるような状態の球場だったですね」と話しています。

大会が開かれた大きな理由は「戦意の高揚」が目的でした。当時、宮坂さんたち選手に配られた大会プログラムには、「学校の表記にローマ字を使ってはならない」などと記されていました。敵国、アメリカの文字を使うことは決して許されないと、ユニフォームのチーム名も漢字になりました。

「兵士は戦場で交代できないから」

戦争の影は選手自身にも及びました。彼らは「選士」と呼ばれ、兵士に準じた扱いを受けました。

原田さんの平安中学は1回戦ノーヒットノーラン、2回戦も被安打1と、エース富樫投手の活躍で勝ち進みました。

富樫投手は、キャッチャーとして球を受け続けた原田さんが、「おかげで今も手に血まめが残ってるんですよ」と話すほどの剛速球投手でした。

しかし地方大会からの連投につぐ連投で肩が悲鳴を上げ始めているのが、原田さんには伝わっていました。痛み止めを打ちながら何とか決勝まで駒を進めましたが、限界をとうに超えていました。

しかしルールでは交代が認められていませんでした。「戦場で兵士は交代できない」という理由でした。

原田清さん:
「富樫はまだ私は投げられますということでしたけどもね、でもあのときは全然。山なりのボールで。あんだけ速いボール投げていたけどもね。私のミットに届くのがやっとですわ」

延長11回の末、平安中学は押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫しました。がっくりと肩を落とす原田さんの写真が残っています。この大会が原田さんの最初で最後の甲子園になりました。

仙台市に住む春日清さん(90)も、「選士」の1人でした。春日さんは宮城県の仙台一中、現在の仙台一高から「幻の甲子園」に出場しましたが、試合中にチームメートが大けがを負った時の場面をはっきりと覚えています。

春日清さん:
「レフトをやっている富田さんって人が、フェンスにもろにぶつかって足のももを2針縫った。それでも交代しなかったんです。あとから監督に聞いたんですが、『交代はまかりならん』と言ったんです。多少のけがでもやれってことかもしれない。今思うと、ひどいルールだなって思いますね。ケガしていても交代はダメだなんてちょっと考えられないですね」

ボールではなく手りゅう弾の遠投

大会のあと、日本はさらに戦争へと突き進み、公式の大会はすべて中止となりました。平安中学野球部も廃部になります。

ボールを握るはずの手で、武器を扱う日々。学校では軍事教練で模擬手りゅう弾の遠投を競う「手りゅう弾投げ」が行われました。肩を回復した富樫投手が投げた手りゅう弾は100メートル以上飛び、民家のガラスや屋根に当たって壊してしまうこともたびたびだったと、原田さんは回想します。

大会から数か月後には勤労で火薬庫に務めていました。「火薬詰めですよ。手が真っ黄色になってね」平時であれば最後の大会を目指していたはずの翌18年の夏も、火薬庫で過ごしました。

卒業後、原田さんは海軍へ。広島の呉で特殊潜航艇に乗り込み、沖縄への出撃の指示を待っていたと言います。幸い、潜航艇の度重なる故障で出撃はないまま、終戦を迎えました。

原田清さん:
「あとから知ったんやけどね、平安野球部の先輩も亡くなったしね。甲子園で戦った選手たちも戦争で死んどるんですわ。われわれは何もわからんかったからね。結局意味がなかったわけですわな。負けて。みんなそう思ってるんちゃいますか」

原田さんの青春は、戦争に奪われました。

「幻の甲子園」母校で特別授業

原田さんの経験は後輩たちへと語り継がれています。

龍谷大平安高校では、社会科の授業で毎年、「幻の甲子園」についての特別授業が行われています。時代背景を生徒に考えてもらうのがねらいです。

社会科の教諭、佐々木じろうさんは5年前から幻の甲子園について授業で話しています。平安中学の投手が肩をけがしても交代できなかった実話を紹介しました。「投げても投げても、肩が痛い。でも投げなければなりません」と説明します。

当時の大会について語ることができるのは、今では原田さんただ1人だけ。今年は初めて、原田さんの証言が映像で紹介されました。

「スポーツのルールすらも戦時下ではゆがめられてしまった」。記録に残らなかった大会が今に伝えるメッセージを、生徒たちは一生懸命理解しようとしていました。

軟式野球部のマネージャーの女子生徒は「平和だからこそ中断とかなしに野球ができているわけやし、自分たちの好きな野球をできるのはありがたいことやと思います」と話していました。

「幻の甲子園」じゃない

部屋を訪れると原田さんは、大リーグ、エンジェルスの試合を観戦していました。「大谷いいよね、打てるし走れるし投げられるし。すごい選手やわ」

原田さん、実は大谷翔平選手の大先輩にあたります。終戦後、大学で野球を再開し、北海道日本ハムファイターズの前身、東急(東映)フライヤーズに入団。8年間のプロ生活では、4番もつとめました。

今でも毎日、プロ野球や大リーグの中継を見るのが日課です。テーブルには、応援のときに誇らしげに見せてくれた野球部の帽子が、大切に置かれていました。

原田清さん:
「幻の甲子園とよく言われるけどね。幻とは思いたくないしね。実際に甲子園の土踏んで来たんやからね。戦ってきたんやから」

原田さんにとって、あの大会は幻ではありません。

仙台一中で幻の甲子園に出場した春日さんも、「全国から16チームが集まって大会をやったんですから、幻とは思っていません。野球ができるんだってことが励みになったし、楽しみでしたね」と話しています。

また、松本商業で出場した宮坂真一さんは、「戦争はやっちゃいけないのは当たり前だしスポーツはフェアであるべきです。野球が戦争に利用されちゃならんと思いますね」と話していました。

甲子園球場で流した汗や涙は決して「幻」ではない。76年たった今でも当時の記憶は球児たちの中に生き続けています。