「駅の子たち」を引き取り育て続けた夫婦がいた

「駅の子たち」を引き取り育て続けた夫婦がいた(2018年8月15日 大阪局 泉谷圭保記者)

太平洋戦争では、子どもたちも被害者でした。戦争で親を失い、いわゆる戦災孤児となった子どもたちは、12万余りにのぼったとされています。
かつて大阪・島本町に、こうした孤児たちを引き取って育て上げた夫婦がいました。今も残る、夫婦の思いを取材しました。

今も残る施設の記憶

大阪の島本町にある、保育士を養成する専門学校の敷地内に、ひっそりと建つ古い建物があります。

ことし6月の大阪北部地震で被災し、屋根にはブルーシートが張られています。

実は、この建物、戦後間もない大阪で、多くの戦災孤児たちを保護した施設の名残です。

「駅の子たち」を引き取り育てる

施設を作ったのは、この場所で子どもたちの保護活動に取り組んだ、牧師の故・中村遥さんと妻の故八重子さん夫婦でした。

終戦直後の大阪駅には、戦争で身寄りを失った子どもたちがあふれていました。いわゆる戦災孤児です。

子どもたちは駅の階段や待合室などで暮らしていましたが、やせ細って、栄養失調状態の子どもも少なくありませんでした。

中村さん夫婦はたびたび大阪駅を訪れては、そんな子どもたちを引き取りました。

夫の遥さん自身が幼い頃に貧しい中で育った経験から、子どもたちを見過ごすことができなかったのです。

保育士専門学校の理事を務める延原正海さんは、生前の遥さんから、子どもたちの保護にかける覚悟の言葉を聞いていました。

大阪水上隣保館 延原正海理事:
「『子どもたちのためだったら人の股の下もくぐる』とおっしゃっていました。施設の子どもたちを自分の子どもとして受け止め、本当に強い思い入れを持っていました」

食事の確保に奔走

中村さん夫婦に育てられた戦災孤児の1人で、現在、鳥取県に住む荒川義治さん(80歳)を訪ねました。

戦争で親を亡くした荒川さんは、終戦直後、行く当てがなく大阪駅で暮らしていました。

当時、7歳でした。ほかの孤児たちと一緒に大人の使い走りをしては食べ物をもらい、なんとか命をつないでいましたが、死の不安と隣り合わせの毎日でした。

荒川義治さん:
「おにぎりを2つもらったら1つはその日、食べ物にありつけなかった子どもに分け与えていました。自分のわずかな食べ物も分かち合わなければ、命がついえてしまうという危機感みたいなものを子どもなりに感じ取っていました」

そんな時に荒川さんは、中村さん夫婦に保護されました。

荒川義治さん:
「わら布団といって布の中にわらを詰めて、それがクッションのようになるんですよ。施設では、それを敷き布団の代わりにして寝ていました。意外と寝心地は悪くなかったですよ」

ただ、当時は深刻な食糧難です。中村さん夫婦は子どもたちの食事を確保するために畑を耕し、寄付金集めに奔走していました。

荒川さんはそんな中村さん夫婦の姿を忘れることができないといいます。

荒川義治さん:
「自分のことは後回しにして、困っている子どもたちを少しでも豊かにしようという思い、それが夫婦の人生を貫いていました。戦争のために親を失い、住むところを失い、悲惨な状態に置かれた子どもたちに対する親身な思いですね。感謝しても感謝しきれないものがあります」

当時、荒川さんは少しでも助けになればと栗や柿の木を植えました。中村さん夫婦は実がなったら食べられると喜んでくれました。

「子どもを守る」思いを引き継ぐ

戦災孤児たちが巣立ったあと、中村さん夫婦がこの場所に作ったのが、保育士の専門学校でした。

現在、170人あまりが保育士を目指して学んでいます。中村さん夫婦に保護された荒川さんは、施設を出た後に牧師となり、この専門学校で校長を務めました。

「子どもたちを守りたい」という中村さん夫婦の思いを、若い学生たちに伝え、多くの保育士を育ててきました。

荒川さんは、自分たちのような子どもが二度と出てこないことを願っています。

荒川義治さん:
「戦争の犠牲になるというのは、命を落とす人たちのことだけでなく、『あの時いっそのこと死んでいたら良かった』と思うほどの苦しい状況を生きることを、余儀なくされる人たちのこともいうと思います。その悲惨さを考えると、戦争というのはあってはならない。誰も幸せになれない」

戦後73年。学校の片隅では、かつて荒川さんたちが飢えをしのぐために植えた栗の木がことしも実をつけていました。